輝くいのちと終末の意味
“スピリチュアル・ペイン”をめぐって
野村祐之
青山学院大学講師
“健康”を見直す−WHOの新しい定義
昨年の夏ごろから医学校、看護学校、病院、ホスピス関係の方からたびたび問い合わせの電話をいただきました。まるで打ち合わせたように同じ内容で、「スピリチュアルを日本語でどういったらいいか」というのです。どうしたことかと思ったら、最近WHO(世界保健機関)が「健康」ということを再定義して、いままでは「身体的に良好な状態」としていたのを「身体的のみならずスピリチュアルに良好な状態」と改定することになったのだそうです。そこで、この“スピリチュアル”をいったいどう訳したらいいかが問題になったというのです。
スピリチュアルというのはキリスト教の神学用語で、「霊的」というのが基本的な訳語ですのでそうお答えすると、「それでは困る」といわれました。「うちの病院にも『霊』の字のつく部屋が地下にあるけれど、まさか患者さんに『霊的ケアもします』などといえない」というのです。
また、ある医学校では「精神的」と訳してみたそうです。患者さんに対して「身体的のみならず精神的配慮を」ということで、適訳だと思ったら精神科の先生からクレームがついたといいます。「精神科の専門領域とスピリチュアル・ケアとは範ちゅうが違う。混同されては困る」とのことですが、それは確かにそうだと思います。
では“スピリチュアル”とはいったい全体どういうことなのか。今回のテーマは「スピリチュアル・ペイン」ということでもありますし、まずはこの言葉の意味と背景について原点に立ち戻って確認しておきたいと思います。
“スピリチュアル”とは
スピリチュアルという言葉はキリスト教の神学用語だといいましたが、WHOの“健康”の再定義案をご覧になった方は「まてよ」と思われたかもしれません。原案には「宗教的な意味でスピリチュアルというのではない」と、わざわざ但し書がしてあるからです。
この但し書は、2つのことを意味していると思います。ひとつには、ある特定の教派や教義に片寄った解釈をしないということ。そしてもうひとつには、これがより根本的なことですが、“スピリチュアル”という用語はこうした但し書を添えざるを得ないくらい宗教的な概念だ、という事実です。
ですからキリスト教文化圏では常識的なことですが、日本のようにキリスト教の伝統が希薄なところでは「どうもピンとこない」ということになります。そこでこの言葉のルーツをさかのぼるためにも聖書に触れなければなりません。
さて聖書を開く前に、今日の世界における聖書の影響力について見ておきましょう。ご存知のように聖書はキリスト教の独占物ではなく、旧約聖書はもともとユダヤ教の聖典ですし、イスラム教も旧約・新約聖書の伝統を土台にしています。つまり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「ダンゴ3兄弟」のようなもので、中を貫く串が「唯一絶対の天地の創造主を信じる」ということです。ですからこれら3宗教はひとまとめにして“聖書の民、経典の民”と呼ばれることもあります。
世界を見てみますと全人口の3分の1がキリスト教徒で、“聖書の民”全体では過半数になりますので、人類の半分以上は聖書の世界観、人間観を前提に生活しているということです(ちなみに仏教徒は世界の人口の約6%ですからかなり少数派です)。
地域的に見てみますと、ヨーロッパでは75%がキリスト教徒、そしてユダヤ教とイスラム教を合わせると8割の人がいわゆる“聖書の民”です。
北米ではキリスト教徒が54%、ユダヤ教、イスラム教を合わせると56%です。南米では全人口のなんと98%がキリスト教徒です。アフリカでは3分の1がキリスト教徒で、イスラムを加えると全住民の73%になります。オセアニアでは人口の3分の2がキリスト教徒です。
アジアはどうでしょうか。人口超大国の中国やインドではキリスト教は少数派ですが、それでもアジア人全体の3分の1が“聖書の民”で、そのうち3分の2がイスラム教、残り3分の1がキリスト教です。
ところが日本のキリスト教人口は並外れて小さく、最新の統計によると1%を欠いています。
以上のような状況ですから、いまの日本で“スピリチュアル”ということの意味をしっかり把握するためには聖書、とくにキリスト教の人間観に触れておく必要があるというわけです。
キリスト教の人間観にみる“スピリチュアリティ”
ではキリスト教では人間をどうみるか、ということですが、むずかしいことをいい出すときりがないので、キリスト教的人間観を端的に表しているYMCAのロゴマークを参照することにしましょう。なぜYMCAなのかと思われるかもしれませんが、YMCAは日本名を「キリスト教青年会」といい、150年ほど前、ロンドンで青少年のために始められたキリスト教精神に基づくボランティア団体なのです。
さてそのロゴマークですが、赤い逆三角形で、正章を見るとその3つの辺にはBODY・MIND・SPIRITと書かれています。
YMCAのロゴマーク
BODYというのは人間の身体性を示しています。人間とはからだを備えた存在であるということです。
そしてMINDとは知性のことです。人間というのは「あたま」を使う知的な存在だということです。人間の学名はホモ・サピエンス、ラテン語で“知の人”という意味であるのはご存知だと思います。
ところでみなさんは、わが子が理想的に育ってくれるとしたらどんなことを希望なさいますか。健康でスポーツ万能、それに頭がよくて勉強もバツグン。つまり輝くようなボディとマインドの持ち主、ということになりましょうか。
さて、その上何を望まれますか。これ以上望むなんてバチがあたりそう、と思われるかもしれません。でもキリスト教的には、からだが立派で頭がいいだけなんて、たいしたことではない。いやそれどころか、そんな人間では危なくてしょうがない。だいたい世の中、悪事を働いてまんまと逃げおおせる人というのは、かなり頭の回転が速く、体力にも自信のある連中です。
ではほかに何が必要なのか。いや、人間として体力や頭脳以上に欠くことのできないものは何なのか。実はその答えが、逆三角形のいちばん上の辺に示されているのです。そこにはSPIRITと書いてあります。そう、これが「霊性」です。まあ、おおざっぱに「こころ」といっておきましょうか。
優しいこころがあってこそ、明晰な頭脳も強健な体力も人間らしく活かすことができる、というものでしょう。
頭とからだ、そして何よりもこころ。人間にはこの3つの側面があり、これらが十全に活かされているとき、私たちは健康にいきいきと自分らしい人生を送ることができる、というわけです。
残念なことにわれわれの日常的にはこのどれかを押し殺し、折り合いをつけながら生きていることが多いのではないでしょうか。その結果、どうも自分らしくない、どこか納得がいかずこころにひっかかるものがあると感じてしまう。その点、たとえばボランティア活動ではこの3つの面をフルに活かすことが期待されており、社会的に役立つだけでなく自分らしさを取り戻す契機にもなっていたりします。
人間の真価が問われるのは、結局はこの“スピリット”、こころのありかたにあるとさえいえるのではないでしょうか。
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