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座談会〈アイコウボウ・USAを考える〉
〈座談会参加メンバー〉
斎藤 昌
二子メンタルクリニック院長、アイコウボウ・USA評価委員会 委員長
林 幸男
(学)日本福祉教育専門学校 講師
白石弘巳
(財)東京都精神医学総合研究所 精神保健医療システム研究部門副参事
大原美知子
(財)東京都精神医学総合研究所 精神保健医療システム研究部門精神保健福祉士
 
精神保健福祉施策と共同作業所のなりたち
斎藤 まずは共同作業所そのものについて、みなさんでお話ししていただきたいと思います。確か私の記憶では、昭和三十年代の半ばぐらいに家族会が最初の作業所を作ったように思います。しかしそれは精神障害者の作業所ではなく、知的障害者の作業所だったんですね。それがだんだん発展していって、国としても放っておくわけにいかないということで、法定外施設として補助金を出すということになったのが、昭和五十二年だったと思います。それからその十年後、六十二年に精神障害者の作業所にも補助金を付けるということになっていった。だいたい一年間に二百ヵ所ぐらいずつ全国に増えていっているというのが現状ですね。しかし、日本経済が右肩下がりになってから、設立を抑えるというような動きがあります。それから、作業所の質的内容を問うというふうな動きも出ています。確かに作業所というのは、今のところ玉石混交というふうな状態でもあるんじゃないかと思われます。林さんは東京都立精神衛生センターにいらした時に、精神障害者の作業所の設立に尽力されて、その功績によって読売新聞社から表彰を受けられたわけですが、共同作業所を作っていかれた時の思いだとか、その当時の共同作業所の将来像だとか、そういうようなところを少しお話しいただければと思います。
 
座談会、藍カフェ&ギャラリーに
 
 作業所について何か言おうとすると、その前に職親制度のことを言わなくちゃならないんですね。で、その職親制度のことを言うには、デイケアのことを言わなくちゃならないということがあるんです。昭和四十二年の秋頃から、集団レクリエーションという言い方でデイケアまがいのことを始めたんですね。たぶん東京では初めてだったと思います。レクリエーションを通した活動を三ヵ月間やって、それから就職しよう、という比較的目的がはっきりしたグループ活動を始めたわけです。三ヵ月間レクリエーション活動に参加して、それから一般の事業所に協力をお願いして就職する、ということを二年ほど続けました。その体験から、事業主に何らかの援助をする必要があるのではないかと思ったわけです。具体的に言えば、金銭的な援助と指導をするということですが、精神障害者の社会適応訓練、即ち職親制度というものを考えて、昭和四十四年に予算要求書を出したんです。その当時としては、そういう必要性は強く感じてはいたけれども、社会の気運がそういうふうになっていませんから、アドバルーンのつもりだったんです。ところが美濃部都政の時代でしたので、当時の家族会の要請と職親制度の予算要求がうまく合致しまして、それが偶然美濃部知事の目に留まって、予算がついてしまったんですよ。それで昭和四十五年の十月から実施することになったんです。それから事業所にどんどんその職親制度を使って、社会適応訓練のお願いをしていったわけですが、四十八年のオイルショック頃から全然採用をしてくれなくなりまして、就職した人もどんどん戻ってきてしまったんですね。そんなふうに非常に困っていた時に、たまたま身体障害者や知的障害者の作業所をやっていた方から電話が掛かってきまして、その人と話合いをするうちに、作業所を企業に似せて作ればいいんじゃないかという話になったんです。あたかも外見的には企業のようにして、作業所を職親として認めてもらおうということになったわけですね。ですから当時は、一般の事業所の代わりに作業所を、ということだったんです。その当時ー精神衛生センターが出来る以前の精神衛生の実情は、入院か、家庭か、という二者択一の状況にあったわけですね。デイケアが出来ることによって第三の場が出来て、彼らからすれば行く所が保障されたということになったわけです。デイケアは生産的な活動はしないけれども、作業所になると生産的な活動をしながら第三の場が保障される、ということで地域の家族会等から注目を集めるようになっていったんだと思うんですね。その後、作業所が三十ぐらいに増えた段階で、これはちょっとまずいんじゃないか、と言われだしたんです。作業所を職親制度の事業所とみなすのではなく、もっと別のシステムを考える必要があるんじゃないか、と。それでそのために作業所の運営要綱づくりを始めて、職親制度による援助から徐々に切り替えていったんです。当時考えていたのは、地域で生活する精神障害者にとって行く所がないというのは大問題で、行く所の保障をする必要があるということ。もう一つは、デイケアでも作業所でも、通うことによって関係づくりが出来る。メンバー同士とか職員ととか、そういう良い関係作りが生活をしていく上でかなり重要な意味を持つのではないか。そんなふうにデイケアの活動を通じて学びました。そうしたことの保障という意味がありましたね。
斎藤 仲間が作業所を作ろうと言ったのはいつ頃なんですか?
 昭和五十二年の十一月から始めて、五十三年四月から職親制度の適用です。
斎藤 職親制度という制度がまずあって、その予算を作業所に適用する、ということですね。それから、作業所の数が増えてくると、これじゃまずいということが出てきたわけですね。
 本来的な使い方ではない、と。
斎藤 白石先生は障害者の技術支援に関するシステムの調査と開発の研究をなさっていて、今の話をどう思われますか?これも一つのシステムづくりだったんだと思うんですけれど。
白石 東京都は特別ですね。全国のリーダーだという自負があったんだと思います。僕は昭和五十六年に精神科医になり、川崎市の病院に勤めるようになったんですけれど、当時、川崎市内には一つか二つしか作業所がありませんでした。今はもう二十ぐらいになってますけれど。次に、平成元年に埼玉県に勤務したら、埼玉は作業所の数が少ないだけではなくて、一つの作業所に年間七十万しか補助金が下りてないというんです。東京都のCランクより下ですね。職員ひとり雇えないです。そういうのが、まだ十年ちょっと前の状態だったんです。たぶん、東京都がひとりで先を行っていて、八七年(昭和六十二年)の精神衛生法の改正で社会復帰が一つの柱になったことで、全国に波及したんです。東京都がリーダーシップをとって、ようやくここ十年で受け皿づくりが少しずつ行なわれてきて、いま矢継ぎ早にいろんな政策が出て来てはいるけれど、まだまだというところなんじゃないかという気がします。
 東京都がリーダーシップをとって全国的に広がったっていう感じでもないんです。そうなったのは、東京都で作業所が百を超えてからですね。
白石 家族会の人の話をうかがうと、地方はお金がないから行政も助けてくれない、専門家のバックアップもない、しょうがないから家族会の人が集まって、誰かが自分の家を提供して、みんながお金を寄せ集めてようやく作業所を作った。そういうことを続けていくうちに、細々と県のレベルの補助金が付くようになった。そういうのが普通の作り方で、それがだんだんと家族会の手を離れて、専門家が指導する形で入るようになっていった。今でもまだ家族会がバックアップしている作業所はかなりありますね。
大原 都内の病院でPSW(精神科ソーシャルワーカー)をやっていた時に聞いた話では、昭和二十年代から抗精神薬が開発されて、ワーカーが患者さんたちを一生懸命家庭や社会に復帰させていった。当時は需要があって、患者さんたちがどんどん地域に働きに出て、退院していったという経過があるんですけれども、オイルショックがあって、機械化・合理化のために患者さんたちが職場から排除されて、排除された患者さんたちは行き場がないわけですよ。そうすると、行く所がないもんですから、病院の外来で一日過ごすというふうになってしまった。病院は困っちゃって、通院する患者さんたちにも迷惑ですし。そういう意味も含めて、作業所とかデイケアとかでの居場所作りということもあったと思います。それまでは病者として患者さんを見てきたと思うんですけれども、むしろ障害者として、地域の中の生活者として見るべきなんじゃないかという考え方が広がって、それまでの心身障害者福祉法が今の障害者基本法につながったという経過があります。この法律でやっと障害の中に精神障害も入りましたけれども、そこまで持っていくのに一つの大きなインパクトを与えたのが、やっぱり作業所運動だったんじゃないかと私は思っています。
斎藤 作業所は法定外施設という位置付けですけども、法定施設として出発した方が良かったみたいなことがあるんでしょうか?それとも、法定外施設で良かったのでしょうか。
大原 作業所というのは元々福祉施策としてあるものですから、精神疾患の患者さんたちにそういう福祉施設というような施策が必要なのかどうか、その辺りのことも最初から分かっていたわけではないと思うんですけれども。その辺はいかがでしょうか?
斎藤 知的障害者の作業所も、やはり法定外施設としてありますね。法定施設は実習所といって、もっと重い障害の人たち、自分で通うことが出来ない人たちの施設です。作業所というのは自分の力で通うことの出来る人たちの施設で、それはやはり法定外施設で、精神の作業所と同じ位置付けなんです。ただ他の部分での福祉施策が、知的障害者の施策の方がずっと充実しているわけで、それにはいろんな経緯があったように思うんですけれど。例えば、知的障害の人たちは、ほとんどの人が生まれながらの、あるいは生まれて間もない頃の障害で、障害が固定していますから、障害としてとらえやすかったということがありますね。精神障害の場合、途中から良くなる人もいますし、良かった人が悪くなることもありますし、長い時間経過の中で状態が変わっていってしまうというところで、精神障害者福祉法を作るのに、国側のためらいがあったようです。それから私が聞いた限りでは、家族会の人たちが、自分たちの子供を障害者として認めるのを拒否していたということもあったようですね。
 障害者という概念が、障害が固定しているかどうかということだから、精神障害者は福祉の対象じゃないんだ、というのが福祉を推進している人たちの基本的な考え方でしたね。
斎藤 今現在はどうなんでしょう?
 蜂谷論文が精神障害者福祉という考え方を変化させるきっかけになったと思うんですけれど、その時からですね。
斎藤 蜂谷論文というのは、精神障害では疾病性と障害性を兼ね備えているという論文ですね。
 あれは医者が言ったから意味があったんだと思うんですよ。それまで医者というのは、患者さんはあくまでも治療の対象であって、福祉の対象じゃないというふうに言っていましたからね。







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