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アイコウボウ経営難
 八八年に藍工房(東京)の分工房としてアメリカ・ワシントン州・バンクーバーに設立されたアイコウボウ・アメリカ。設立から九年間で、延べにして六十九人のメンバー、百四十五人のボランティア、十六人の留学生がアイコウボウの活動に参加した。
 このバンクーバーのアイコウボウを拠点として、多くのメンバーがアメリカの文化に触れ、地域社会の中で生活体験をすることが出来た。また、様々な施設で展示会を開き、たくさんのアメリカ人に藍染めなど日本文化を知ってもらう機会も得た。
 九五年にはより活動の幅を広げるためにバトルグラウンドに引越しをし、家は大きくなり、ベッドの数も増え、より多くの利用者が参加出来るようになった。広い庭には何十本もの桜の木やブルーベリー、ラズベリーなどが植えられ、ハーブ畑や野菜畑も出来た。ワークショップでは藍染め、組紐、織り、陶芸などが出来るようになり、アイコウボウの活動はどんどん広がっていった。
 しかし、ここに至って前途有望かに見えたアイコウボウに、にわかに暗雲が立ち込めだした。
 
 一九九七年、アイコウボウの東京事務所では、担当者がアイコウボウの買い手を探していた。アイコウボウの閉鎖が決定されていたのである。
 閉鎖の理由はいくつかあったが、最も大きな問題は次の二点であった。一つ目は、ボランティアの確保が難しくなってきたこと。もう一つは、参加するメンバーが年々減少していることである。
 アイコウボウにとってボランティアが確保出来ないということは致命的なことである。なぜなら、アイコウボウはこれまでボランティアの人たちによって運営されてきたからである。
 アメリカのアイコウボウは東京の藍工房と違い、どこからも補助金を受けずに運営されてきた。したがって、運営に必要な資金はすべて利用者の参加費によってまかなわれていた。当然、参加費だけではスタッフを雇うことは出来ない。参加費はその名の通り、渡航費や毎日の生活費に使われて無くなってしまうからである。
 もちろん東京から藍工房のスタッフが参加することもある。しかし、それは主に引率をするためで、年間を通して滞在出来るわけではない。藍工房のスタッフは東京での仕事があるため、そう長くは滞在出来ないのである。そうなると頼りになるのはボランティアだけとなる。
 しかし、ボランティアといっても参加者は様々で、二週間で帰国する人もいれば、六ヵ月、一年と長く滞在する人もいる。二週間で帰国する人に運営は任せられないので、必然的に長く滞在する人にお願いすることになる。
 つまり、半年なり一年のスパンで中心となって動くボランティアを一人置き、その他のボランティアがその人を助けるという形でアイコウボウは運営されてきたのである。
 しかし、それは並大抵のことではない。慣れないアメリカの地で、障害者のお世話をしながらアイコウボウを切り盛りしていこうという人を探すのは大変なことなのである。
 アメリカの文化に興味がある人。アイコウボウや福祉に関心がある人。アメリカで長く生活がしたい人など、ボランティアの参加理由は様々である。実際、アイコウボウの活動に参加したいというボランティアは今でも多い。しかし、それが運営となると話は違う。運営に関わるとなると、どうしてもある程度の責任が生じるからである。
 それでもアイコウボウはどうにかこうにか長期ボランティアを確保し、これまで九年間活動を続けてきた。しかしここに至って、その中心となる長期ボランティアが完全に途絶えてしまったのである。
 九五年には一日平均四・五人のボランティアがアイコウボウで活動していた。そのうち長期ボランティアは三人。三人のボランティアが協力し合い、アイコウボウを支えていた。
 しかしその三人は、翌九六年には全員帰国してしまい、中心となる長期ボランティアが誰もいなくなってしまったのである。
 これは致命的なことである。短期ボランティアならともかく、中心となる長期ボランティアがいなくなってしまってはアイコウボウの運営は非常に難しくなってしまう。
 そして、アイコウボウの運営を困難にするもう一つの問題、参加メンバーの減少については次のような理由が考えられる。
 アイコウボウで生活体験をするメンバーは、ほとんどが藍工房の登録メンバーである。したがって、参加メンバーの数にはおのずと限界がある。また、参加するには少なくない額の参加費が必要であり、誰でもそう度々参加出来るわけではない。そうなってくると、必然的に参加人数は年を追うごとに減ってくるわけである。
 九五年には一日平均四人いたメンバーが九六年には三人になり、九七年には一・五人となってしまった。参加者が減れば当然参加費も集まらない。アイコウボウは利用者の参加費だけで運営されているため、参加者が集まらないと施設の維持費が捻出出来なくなるのである。
 これ以上続けるためにはどうしても資金が必要である。充分な資金があれば、ボランティアに頼らずともアイコウボウに専任のスタッフを置くことが出来るし、参加者の費用も軽減することが出来る。そうすれば、より多くのメンバーが参加する機会を得ることが出来るのである。
 しかし、そう都合よく寄付が集まるわけではない。いろいろと機会あるごとにお願いをして廻ったが、世の中そんなに甘くはない。よい返事はどこからも貰えなかった。しかたなく私たちはアイコウボウの閉鎖を決断し、売却先を探すことにしたのである。
 売却するにあたって私たちは、アイコウボウのこれまでの活動に賛同してくれる人を探した。アイコウボウは手放しても移動教室は存続させたい、私たちはそう考えていた。ただ土地建物を売却するのではなく、これまでアイコウボウがやってきた活動、「日米文化交流の拠点」としての活動を維持しつづけてくれる人を探したのである。
 しかし、売却先も簡単には見つからなかった。いろいろな人、いろいろな企業、いろいろな団体にあたったが、興味を示す人は誰もいなかった。
 続けることも出来ず、買い手も見つからず、八方塞がりの状態がこうしてしばらく続いた。そんな中、私たちは日本財団にめぐり会ったのである。
 日本財団とのつながりは意外なところにあった。藍工房のスタッフに元日本財団の職員がいたのである。そのスタッフの紹介で、私たちは日本財団の門をたたいた。アイコウボウの活動に援助をしていただけないかとお願いにあがったのである。
 私たちが訪れたのは日本財団ボランティア支援部。国内外のボランティア活動を支援している部署である。私たちは担当の方に会い、アメリカに施設を作った経緯からこれまでにやってきたこと、これからやりたいことなどを話した。
 幸運にも担当者の反応は私たちが想像していたよりもずっと良く、アイコウボウの活動に興味を持ってもらえたようだった。
 それから私たちは日本財団に何度も足を運び、助成金申請の準備を進めていった。そしてついに、一九九八年四月、アイコウボウに助成金の交付が決定したのである。
 これでアイコウボウを閉鎖しないで済む。これでアイコウボウを続けていける。私たちはホッと胸をなで下ろした。
 助成金の交付にあたって日本財団から出された条件は次のようなものだった。
 助成の期間は三年間を限度とする。その三年間で、アイコウボウがアメリカにある意義を示すこと。アイコウボウの活動を広く社会にアピールすること。助成金交付終了後も継続してアイコウボウの活動を続けること。
 こうして日本財団の援助の下、「日米心身障害者の生活体験・交流事業」がスタートしたのである。







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