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村上さんと和也くん
 九六年四月、藍工房(東京)のスタッフ村上さんは、四人のメンバーを引率してアイコウボウを訪れた。
 この村上さん、実は第一章「アメリカ留学」で紹介されたMさんである。中学のときに初めてアイコウボウを訪れ、アイコウボウで働くために一年間語学留学をし、それから早二年。待ちに待ってた待望のアメリカ勤務である。
 しかし、喜んでばかりもいられない。彼女はこの移動教室にあたって一つの大きな課題を抱えていた。それは、メンバーの和也くんとコミュニケーションをとるというものであった。
 和也くんは言葉を話すことが出来なかった。普通「言葉が話せない」というのは身体的な障害が原因であることが多いが、彼は知的障害者で、しかも声帯には何ら異常はなかった。
 声帯に異常はないので声は出る。しかし、言葉にはならない。「アー」とか「ワー」とか大声は上げるが話は出来ない。
 言葉が理解出来ないというわけではない。素振りを見ていると、こちらの言っていることはだいたい分かっているようである。理由は分からないが、なぜか発声が出来ないのである。
 さて、その和也くんであるが、彼は藍工房に入所を希望していた。だが、入所前の実習中に和也くんは信じられないようないたずらを連発した。
 水が大好きで、トイレや台所を水浸しにする。藍工房のマンションの大家さんが飼っている鯉の池から酸素を送るポンプを出してしまい、大騒ぎになったこともあった。注意をしても余計に面白がって、奇声を上げて喜ぶだけである。そんなことがたび重なり、一部のスタッフから和也くんの入所を反対する声が上がった。
 村上さんは何とか和也くんを入所させたいと思った。そして一つの提案を出した。それは、アメリカのアイコウボウで六ヵ月間生活をし、和也くんがみんなとコミュニケーションをとれるようになり、みんなと共同生活が出来るようになったら、その時点で彼の入所を認めてほしいというものであった。
 入所を反対していたスタッフも、とうとう彼女の熱意に負け、村上さんは和也くんを含めた四人のメンバーと共にアイコウボウにやって来たのである。
 ところが、アイコウボウに到着する前に立ち寄ったロサンゼルスで、早くも和也くんのいたずらは始まった。ロサンゼルスのホテルで部屋の中から鍵をかけ、みんなを閉め出してしまったのである。
 部屋の中には和也くんと英明くんがいた。英明くんは自閉症で、和也くんがしていることを知ってか知らずか、体を強張らせてじっとベッドに座っている。
 村上さんは英明くんに鍵を開けてもらおうと、しきりに彼の名前を呼んだ。しばらくすると、英明くんはゆっくりと立ち上がって鍵を開けようとドアの前まで来たが、和也くんが邪魔をしてどうしても開けさせない。ドアの前でパニックになる英明くんと、喜んで大声を出す和也くん。そんな状態がしばらく続いた。
 何とかして英明くんに鍵を開けさせたい。そう思った村上さんは、ホテルの売店に走った。そして、戻ってきた彼女の手にはポテトチップとコーラが握られていた。
 「英明く〜ん、コーラがあるよ〜。おいしいポテトチップもあるよ〜」
 ドア越しにポテトチップの袋を揺すって英明くんを誘う。
 ポテトチップとコーラに目がない英明くんは、妨害する和也くんも何のその、ついにその重い扉を開けたのであった。
 残念そうな和也くんと、ポテトチップとコーラを両手に満足気な英明くん。こうしてロサンゼルスの一件は落着した。
 和也くんのいたずらは、アイコウボウに到着してからもとどまることを知らなかった。何かにつけ思いつく限りのいたずらを繰り返した。それはアイコウボウの中だけにとどまらず、外出先でも同様だった。買い物に出掛けたショッピングモールで、広場の噴水の水を止めてモールの人に怒られたこともあった。
 そんな和也くんにスタッフはいつも手を焼いていたが、不思議に他のメンバーは彼を温かい目で見ていた。英明くんも健くんも、和也くんを弟のようにかわいがっていたし、あきちゃんもいろいろと世話を焼いてくれた。
 しかし、みんながみんなうまくいっていたわけではない。中でも河野さんとの仲は最悪で、しょっちゅう衝突を起こしていた。
 河野さんは、時おり上げる和也くんの奇声が大嫌いだった。和也くんが奇声を上げるたびに、河野さんとの大喧嘩が始まった。
 大喧嘩といっても怒っているのは河野さんだけで、和也くんは平気な顔である。というより、怒っている河野さんを見るのが楽しいらしく、いくら怒られても何度でも同じことを繰り返す。もちろんそのたびに村上さんが止めに入るが、和也くんは懲りた様子もなく、しばらくするとまた奇声を上げるのである。
 こんなことでは東京に帰っても和也くんを入所させることは出来ない。
 どうして和也くんはこんなにいたずらばかりするのだろう。どうして人を怒らせるようなことばかりするのだろう。そして、どうすれば彼を理解することが出来るのだろう。村上さんはそのことばかり考えていた。
 どうにかして和也くんとコミュニケーションをとる方法はないだろうか。そう考え、村上さんは和也くんに字を書くことを教えようとした。毎日寝る前に、その日にあったことを和也くんと一緒に日記に書くようにしたのである。
 
たまにはレントランでお食事
 
 毎日繰り返すうち、和也くんは字に興味を持ち始め、村上さんの字を真似て書くようになった。しかし、文字の形を真似るのが精一杯で、思っていることや文章を書けるようにはならなかった。
 そこで、次に彼女が思いついたのは手話。村上さんはアメリカ留学中に学校で手話のクラスを取っていた。そのとき習った「指文字」を和也くんに教えたのである。
 指文字というのは指の形でアルファベットを表現するもので、和也くんはこの指文字がすぐに気に入った。そして、スーパーなどに買い物に行くたびに、そこら中のものを指差しては指文字でやってくれとせがんだ。しかし、なかなかそれを憶えるのは難しく、JALやPEPSIなど自分が好きなものしか憶えることは出来なかった。
 結局この指文字も意思の疎通にはあまり役には立たなかったが、人とコミュニケーションをとることの楽しさを和也くんは学んでくれたようだった。そして村上さんも少しずつではあるが、和也くんの言いたいこと、やりたいことが分かるようになってきたようだった。
 アメリカ滞在六ヵ月で、結局和也くんのいたずらは収まらなかった。しかし六ヵ月前と比べ、ずいぶんとコミュニケーションが取れるようになっていた。そして、なにより大声を上げることが少なくなっていた。そのことが認められ、和也くんは帰国後希望どおり藍工房に入所することが出来た。
 
 アメリカ滞在中、こんなことがあった。
 みんなで夕食の食卓に着いたときであった。和也くんが手を合わせて「いただきます」と言ったのである。それを聞いたのは村上さんとメンバーの佐藤さんだけ。たくさんの人が一緒にいたが、他の人は誰も聞いていなかった。
 本当に言ったのか、聞き間違いだったのか、それは分からない。ただそのことが、今でも村上さんの心の中に強く残っているそうである。







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