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バンクーバーからバトルグラウンドヘ
 アイコウボウ・アメリカ設立から六年後の一九九四年、私たちはアイコウボウの引越しを考えていた。
 設立当初はベストな環境だと思っていたこの土地も、五年、六年と生活を重ねるうち、様々な問題点が見えるようになってきた。
 アイコウボウはバンクーバー市内の住宅街に建っている。この住宅街というのがくせものであった。市の条例によっていくつかの規制があったのである。
 まず、住宅街で商売をしてはいけない。
 アイコウボウは福祉施設であり、商店ではないのだが、「アイコウボウ」という看板を表向きに出すことは出来なかった。住宅街にある建物は、厳密に住居としてしか使用出来ないのである。
 もちろんアイコウボウはアメリカでも藍染めをやっていた。ガレージに藍ガメを置いて、みんなで藍染め作品を作っていた。しかし、それもこっそりとしなければならなかった。表立って「藍染めをやっている」と言うことは出来なかったのである。
 それともう一つ、住宅街で不特定多数の人が生活をしてはいけない。
 住宅街に住んでいいのは基本的には一家族。最大でも二家族までしか住んではいけない。ファミリーネームが違う人間が三人以上同居してはいけないというのである。
 アイコウボウではいつでも不特定多数の人たちが生活をしている。直接言われることはなかったが、近所の人もそれに気付いていて、噂にはなっていたようである。
 こうしたことは家を買うときに分かってはいた。しかし、そんなに厳密なものだとは考えてはいなかった。だが、アメリカ社会は自由なようでいて、そうしたルールには結構厳しい。ルールがあってこその自由なのである。
 せっかくアメリカで活動しているのである。なんとか「アイコウボウ」の看板を出したい。日本の障害者が生活しているということを地域の人たちに知ってもらいたい。そして、日本の藍染めを多くのアメリカ人に知ってもらいたい。しだいにそうした思いが私たちの中につのっていった。それには引越しをするしか方法はなかった。
 引越しを考えた理由はもう一つあった。それは部屋数のことである。
 アイコウボウにはベッドルームが五部屋しかなかった。普通の家ならベッドルームが五部屋といえば多い方である。しかし、アイコウボウにとって五部屋は少なすぎた。移動教室のたびにたくさんの人たちが日本からやって来る。多いときには十人以上の人たちがアイコウボウで生活することもめずらしくはなかった。
 折りたたみ式のベッドを出したり、床に布団を敷いたりしてなんとかしのいではいたが、やはり窮屈である。もっと広い家に移りたい。もっと部屋数の多い家に移りたい。いつもそう思っていた。そうしたことが積み重なり、ついに九四年の春ごろから、私たちは新しい家探しを始めたのである。
 私たちは不動産屋を訪れ、いくつかの条件を提示してそれにあった物件を探した。条件として出したのは、「アイコウボウ」の看板を出して藍染めがおおっぴらに出来ること。不特定多数の人たちが住んでも大丈夫なこと。ベッドルームが十部屋以上あること。敷地が二エーカー(約八千平米)以上あること。車イスでの生活が出来ること。交通の便がいいこと。
 これらの条件を元に、私たちはいろいろな家を見て廻った。家探しには不動産屋のギャジェットさんという女性が親身になって協力してくれた。
 私たちはギャジェットさんの案内のもと、多いときには一日二、三軒の家を毎週のように見て廻った。しかし、思うような家にはなかなかめぐり会えなかった。だいたい十部屋以上ベッドルームがある家などそうそう見つかるものではない。多くて五部屋。それ以上となると普通の家では無理であった。
 それでも私たちはあきらめずに家探しを続けた。普通の家だけでなく、盲学校の寮だったという建物や、変わったところでは、猟師が住んでいたという床中血だらけの家を見たこともあった。そうして瞬く間に半年が過ぎ、見て廻った家も五十軒を過ぎようとする頃には、さすがの私たちもほとほと疲れ果ててしまっていた。
 条件に合う家なんて本当に見つかるのだろうか。これ以上探しても無駄なのではないだろうか。
 そんなあきらめムードが漂い始めた十二月、ギャジェットさんから朗報が舞い込んだ。条件に合う家が売りに出されたというのである。私たちは早速その家を見に行った。
 その家はバトルグラウンドというところにあった。現在は託児所のようであったが、もともとは老人ホームだったらしく、ベッドルームが八部屋に二階建ての離れがついていた。また、廊下やトイレが広く、車イスでの生活も充分可能であった。
 条件的にはぴったりである。その上庭も広く、五エーカー(約二万平米)の敷地にはブドウやリンゴ、ラズベリーやブルーベリーなどが植えられ、家の裏手には小川も流れていた。
 ただ一つだけ難点があった。交通の便が悪いのである。
 バトルグラウンドはバンクーバーに比べ、ずっと田舎である。しかもその家は、バトルグラウンドのメインストリートからさらに車で十五分も走ったところにあった。つまり、車がなければどこにも行けないのである。
 バンクーバーでは家の前にバス停があったため、交通の便はすこぶる良かった。それに比べれば雲泥の差である。しかし、それ以外の条件はすべてクリアしている。この半年の苦労を思うと、これ以上に条件のいい物件を見つけるのは不可能に思われた。
 ここしかない。この際交通の便だけは目をつぶろう。私たちはそう考え、このバトルグラウンドの物件の購入を決断した。そして、年の明けた九五年一月、ついに契約を交わしたのである。
 家の引渡し後、私たちはすぐに建物の改修に取り掛かった。このままでも住めないわけではなかったが、建物が古いため家の傷みが激しく、快適に暮らすにはいくつかの改修が必要だったのである。
 家の改修は一部を除いてすべて自分たちでやることになった。しかし、このときアイコウボウには女性のスタッフやボランティアしかいなかった。そこで大工をやっている知人のジムさんとケビンさんにお手伝いをお願いし、改修作業を進めていった。
 まず、キッチンやトイレなど水周りの床が腐っていたので、全部引き剥がして張り替える必要があった。それから便器やシャワー、キッチンのシンクなども汚れが酷かったので、新しいものと取り替えた。
 床のカーペットの張り替えとキッチンのキャビネットの取替えは素人では無理なので職人さんにお願いした。
 それからみんなで手分けして、すべての部屋の壁紙の張替え、水周りのタイルの張替え、外壁のペンキの塗り直しなどを何日もかけてやり、ようやく改修作業が終了したのは、二月も半ばを過ぎてからであった。
 
 一九九五年三月、私たちは住みなれたバンクーバーの家を離れ、バトルグラウンドの新しいアイコウボウヘと引越しを終えた。新しいアイコウボウでは庭の樹々たちが早くも春の訪れを告げていた。
 この新しいアイコウボウでこれからどんな出会いがあり、どんな出来事が起こるのだろう。私たちはそれぞれの思いを胸に、遠く澄み渡った空をいつまでも見上げていた。
 こうして、私たちのバトルグラウンドでの生活が始まったのである。







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