日本財団 図書館


解剖学実習を終えて
大阪歯科大学 山本敦弘
 入学当初から一つの話題として上がっていたのが解剖学実習だった。やはり遺体を解剖するという行為に対するインパクトというものは、非常に強烈なものがあった。「本当にそんなことをするのだろうか、できるのだろうか?」という不安感とも恐怖感ともいえぬ恐れがあった。思うに遺体に触れる、メスやピンセット等の器具を用いて切断する、といった行為の『非日常性』ということが他の日常生活すべてのどの部分とも置換せざるものであったからであろう。まず、前者、遺体というものに対する恐怖というのは間違いなくあった。普段生きた人間しか見ることはないし、また、死というものに対して距離感を感じることすらない私達にとっては、ご遺体というものに対してどう処すべきなのか全くわからなかった。そしてもう一つは侵襲という行為に対する戸惑いである。我々は医業というものに従事するわけであり、人体に対して侵襲行為を行うことになるわけである。我々は全員、今まで人体にメスを入れたことはなく、これが初めて人を「傷つける」ことになる。一回生時の社会学でも、解剖実習が医療人にとって一種の儀礼的な意味があると学んだ。確かにそうだ。一回生の時の授業にせよ、二回生の他の実習にせよ、ここまで明確に特殊な授業は初めてである。口腔解剖学でも、顕微鏡を見ていただけだし、生化学や他の学科でもそのようなものだろう。初めて「医療人となるのだ」という自覚を促された思いがする。
 二回生になり、解剖を行うことになったが実際のところはさほどの違和感もなく入ることができたと思う。特に私は夏期休暇中に骨実習の口頭試問を受けた時に解剖実習室で受けたため、先生や上級生が解剖しているところを遠巻きながら見ていたので一層そう思った。ただ実際にメスを入れるとなると話が別で、全く勝手がわからず大変だった。メスを入れる加減がわからず深く入れすぎたり浅すぎたりして皮膚を破ってしまうこともあった。また神経や血管の様子もわからず戸惑うことも多く、ともあれ、実習は始まった。
 実習を重ねるたびに感じたことはまず遺体を提供してくださった方々に対する感謝である。これは素直に感謝の念に絶えない。上述したように、全くの素人である我々だからたびたびミスを犯してしまい、とんでもない切り方をすることも多かったわけで、いきなりこんな器具のさばき方を生きた人間に対してすることはできないであろう。もちろん『本物』の教科書として自らの肉体を我々に示していただいたことにより学びとれたことということの多さ、貴重さはいくら言葉を重ねて説明されても足りることはない。やはりアトラスを何回見返しても一度自分の手で解剖して得るものには到底およばない。
 また、解剖の先生方もよく指導してくださったと思う。こちらは、予習復習もずさんであったが、根気よく、時に厳しく助言・ご指導して頂いたと思う。これもまた感謝の一言につきる。
 あと、大きかったことは友達のサポートである。特に我々のグループは、ある者は解剖を、ある者はスケッチを、とうまく分担しながらやっていた。一応各自の担当パートをやっていたが、結局は手があいた者からまだ終了していないパートの者をフォローしていたし、クラブ等でやむをえない事情以外で帰ることもなく皆残って剖出していた。身体の調子が悪くても手を抜くこともせず、皆協力的であったことが作業を迅速にし、密度の高い実習にしていたと思う。大変助けられた。
 実習を終えた今、改めて感じるのは「医療人らしい授業をはじめて受けた」という思いだ。もちろん他の授業も重要であり、高いレベルの理解を要求される必須のものだが、実感を伴うという意味では最高のものだったと思う。スケッチやレポートの締め切りに追われたことも多かったが、今となってはなにか名残惜しい気がする。このような機会を得られたことに対し、再び感謝したい。
 
解剖学実習を終えて
弘前大学医学部
山本直樹・山下 馨
山元 圭・吉川信一朗
 亡くなられた方の篤志による御献体に対して、またその家族の方々に対して、私たちは先ずもって感謝します。私たちが、日々、医学知識を身につけていくことは、もちろん大切なことですが、それだけでは常に人を相手とする臨床の場で、私たちに課せられた役割を果たせるかというと、そうではありません。そこには、人の心であるとか、気持ちであるとか、人の死とは一体何なのか、そういったものを考えたり、理解する姿勢が必要です。今回の解剖学実習において、御遺体を目の前にし、月日が経つにつれ、人体の基本的構造の理解が進んだのはもちろんでありますが、それに加え、自ずと死とは一体何なのかということを考え始めている自分たちがいる事に気が付きました。今回の実習を通じて得た知識と、自ら学びとった生命の尊厳は、私たちが近い将来、臨床や研究に進んだ時の土台となるに違いありません。また、今回学びとったものを絶えず意識し、今後それを実際の医療現場や研究に生かす、それが御献体された方の意思であると思います。私たちは、これから、このことを念頭に置き、医学、医療に貢献していこうという心構えでいます。
 
解剖実習の感想
東京慈恵会医科大学 山本基佳
 三ヶ月前に始まった、これまでの実習の中で一番医学部らしい実習であり人体の構造を知るうえで最も重要になる実習、解剖学実習が今週で終わってしまった。
 始めは誰もが不安を抱き緊張し、おぼつかない手つきでメスを握っていたが、実習が始まってから何日か経つうちに剖出の要領をつかんできた。うまい剖出が出来たかどうかは分からないが、雑な剖出はしなかったつもりだ。またそうした技術面だけでなく、気持ちの上でもなれていき次第に自分が人の体を解剖しているのだという感覚も麻痺してきていた。そうした慣れは解剖を通して勉強するということには良くはたらくかもしれない。剖出したものが何であるのか、何処にどういったものがあるのかを冷静に受け止め、解剖を通して発見する喜びを知ることができるからだ。ところがその慣れは時として自分が勉強をさせて頂いているのが、以前は生きていた一人の尊い人間であったということまで忘れさせてしまうことがある。たとえ実習室入室前に礼をしたり、実習前や終了後に御遺体に黙祷を捧げたりとしていても、慣れのせいでそうした行為が単に形式的なものになってしまうことがあった。実習の作業に追われ、献体して頂いた方に感謝する余裕のなくなってしまうような、そんな自分が嫌になってしまうことがあった。しかし納棺の日にもう一度献体して下さった方の気持ちを考え直す機会を持つことが出来た。その機会を与えてくれたのは棺の隅に添えてあった数枚の写真であった。その写真には解剖した御遺体の生前の姿、元気そうに笑っている姿、御家族と仲良く写っている姿があった。おそらく御家族の方が棺に一緒に納めてほしいと願ったものだと思われるその写真に写っていたのは、まだ生き生きとしていた本当に人の良さそうなおじいさんだった。その写真を見た時にそれまで麻痺していたなんともいえない感情が心の中によみがえった。「ああ、今まで解剖してきたのはまぎれもない一人の尊い人間なのだ。そしてこの方は私たちに勉強してもらい立派な医師になってもらうためにその体を捧げてくれたに違いない」と思った。そして、そのとき初めて今まで解剖していた御遺体に本当に心から感謝することが出来た。
 私はこれから、どんなに巧みな技術を持つことよりも、どんなに高い名声を得るよりも、人として大切なこういう純粋な気持ちを忘れないような医師になりたい。献体して下さった方に直接感謝の気持ちを伝えることが出来ないのが唯一の心残りであるが、その気持ちは私の医学・医療に対する態度と行動で表して、天国にいる献体者が「山本君に解剖してもらって良かった」と言ってくれるように勤勉に過ごしていきたい。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION