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チームワークと思いやり
大阪市立大学医学部 灘谷祐二
 解剖学実習において学んだもっとも重要なことは、チーム医療の必要性であると、実習の大半が終わった今感じています。なぜなら解剖実習は手術の予行演習のようなものです。独り善がりで作業を進めたとしても、それが自己満足に過ぎないということがはっきりと認識できました。
 実際の手術に際し、本当に必要な組織を守りつつどれだけ的確に患部を処置できるかと考えたとき自分ひとりがつまらないところにこだわって全体の作業を遅らせてしまうことがあれば、それは患者はもちろんその手術に協力してくれている人々にも迷惑をかけることになると思い知りました。
 解剖実習に、もっとも必要だったのは、解剖されている人はもちろんのこと一緒に解剖している人に対する思いやりの気持ちであったと痛感しています。私自身が、作業に気をかけるあまりに、思いやりの気持ちを忘れかけていたような気がしています。ご遺体へは、黙礼こそは忘れることがないように心がけていましたが、感謝の気持ちを常に持ちつづけるというのを守ったかといわれるとそれは嘘になります。
 また、私と偶然同じ班で、偶然解剖を一緒にすることになった友人たちにも、もう少し思いやりをもって接していれば、もっともっとうまく共同作業ができたのではなかろうかと、今になって後悔しています。
 やはり、医療というものは一人でできるものではないのだから、人の痛みをわかる人間になるという大げさな理想を語って自己満足に走るまえに、自分の不用意な言動によって人に痛みを与えることを恐れていきたいと思います。
 自分のふがいない行動を振り返ってみて恥かしい限りです。
 ご遺体と、迷惑をかけつづけていた私を見てフォローしてくれていた班のみんなに対して感謝しています。
 
解剖学実習を終えて
奥羽大学歯学部 奈良克洋
 実習初日、その日は朝から言いようもない緊張感で包まれていた。教室内もどこか非日常的な空気が感じられていた。無理もない、勉強とはいえ自分を含め多くの学生が献体と接するのはこれが初めてなのだから。解剖棟に入った瞬間、最初に目に入ったのは解剖台に乗ったビニールに包まれた物体であった。ビニールの透かしからすぐにそれが献体であるのが理解でき、同時に恐れにも似た感情が込み上げて来た。この感情の意味するもの、それは献体を単なる物として見ているのではなく、故人の身体であると認識しているからである。死は、世界中のどの民族においても特別な意味を持っており、それは日本でも江戸中期まで解剖が行われなかったことから容易に理解できる。だから解剖以前の医学では、例えば漢方では病気は気の流れが悪くなって生じる等、観念で現象を理解しようとしていた。確かに漢方にも現代でも役に立つ多くの知識があるが実際にこの目で確かめてみないとわからないこともたくさんある。それだけの多くの事を献体は語ってくれて我々は多くの事を献体から学ばせてもらった。人体に関する書物が氾濫する昨今において人体を勉強する者以外でも解剖に関する本が手に入る状況では、実習等を行わなくても身体各部の構造や名称を覚えることが可能である。しかし本から覚えるのと、解剖をこの手で行い、検証、理解するのとでは大きな違いがある。それは自分の手で行い観察するといった科学の基本姿勢が含まれているからだ。また献体を通して本からでは語られない生命の不思議さと畏怖の念を感じずにはいられない気持ちになることが出来た。この様な貴重な経験をする機会を与えてくれた献体の方ならびに遺族の方々にこの場を通して今一度深く感謝したいと思います。
 
解剖実習と私
東京歯科大学 奈良夏樹
 今回、人体を解剖させていただける機会にめぐまれたことは、私の人生に於いて大変大きな意味を持ちました。同じ種の生物―しかも御遺体―にメスを入れる事の重大さを体験した異常な緊張と違和感は、一生忘れることのできないものとなりました。
 教科書では想像もつかない、大きさや感触、そして各個の大きさの違いなどが学べたことももちろん大きな意味を持ちますが、それだけではありません。
 歯科医師を志す者として、命の大きさ、その偉大さを学びました。そして生命としての人間をCAREさせていただけることへの感謝と、大きな緊張を感じます。
 そしてまた、人間としても命の大きさを学びました。もちろん人の生命だけではなく、すべての生物の命は不可侵であること、それから神聖で人間が大きく手を加えてはいけないことも学びました。
 半年もの間、生と死について正面からむきあえたことは、私にとってとても大きな影響となりました。ニュースなどの事故や戦争、事件などがとても現実的に、近くに感じられるようになったと思います。
 最後になりましたが、御遺体とその御家族に多大な感謝を感じてなりません。
 
解剖学実習を終えて
久留米大学医学部 西田憲史
 解剖学実習が始まった時、この実習が終了するということがとてつもなく遠いことの様に感じていた。全てが初めての体験で、全く先の見えない出発だった。前期の講義を通して得た知識をどれだけ本物の知識に出来るのか、献体して下さった方の意志に沿えるような実習を行えるのか、など不安だらけであった。実習の初日を終えた時の、今まで感じたことのない様な体力的、精神的な疲労感は今でも鮮明に憶えている。
 しかし、実習が進むにつれ、充実感の方が増していった。前期の講義で得た頭の中に平面的にしか存在していなかった世界が、実際目にしている御遺体の中に存在し、確認できること、この体験は、何とも言えない充実感を得ることが出来たし、さらなる興味を引き起こしてくれた。実習の前日、本を読んでみたものの、今いち理解し難かったこと、また知識として頭に定着し難かったことが、実習で実物を見た後では、簡単に理解出来、頭にも自然と入ってくる。同じ本の同じ部分を実習の前後で読むのでは全く異なる事を初めて感じた時は、本当にこの実習の重要性を感じることが出来た。
 解剖学実習を通して学んだことに、解剖学の知識に加えて、人体の神秘、そして生命の大切さがある。
 人体、それは何十億年という年月をかけて自然が作り上げた最高傑作だと思う。解剖学の勉強をし、実習をすることで、人体の複雑さを知ったし、その不思議を感じた。人体という神秘的で不思議なものを学ぶ道を選んだことに初めて満足感を感じた。それと同時に自分が医師になるためには、まだまだ学ぶべきものが莫大な量残っている事を感じたし、自分の未熟さも感じた。
 また、御遺体を解剖していくことで、生命というものに触れられた気がする。そして、それが永遠でないこと、だからこそ大切にしなければならないことを感じた。私が解剖させていただいた御遺体は、44歳の若さで亡くなられていた。しかも、手や足はやせ細っていた。死因は分からないが、普通に考えれば、人生半ばでの死である。生きたくても生きられない人がいる。だからこそ生きている人は生命を大切にすべきである。そのことを強く感じた。
 解剖学実習を行ってきた約3ヶ月半は、今までに経験したことのない貴重な時間だったと思う。このような貴重な体験をするに当たり、献体をして下さった方に本当に感謝したいと思う。しかし、反省しなければならないこともある。実習をするに当たり、完全に全てを学び、観たと言い切れる自信はない。時には不充分な勉強で実習に臨んでしまった日もある。その点は反省するとともに、これからの学習において、手を抜かない事が御遺体に対する最低限の償いだと思う。
 最後に、解剖学実習で学んだことを充分に生かしながら、世間に役に立てる医師になれるよう、御遺体に対して、そして自分に対しても誓いたいと思う。







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