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解剖学実習感想文
産業医科大学 田崎祐一郎
 解剖学実習の初回、ご遺体とはいえ、まして他人の体にメスを入れることが怖く、やはり多少の抵抗がありました。その反面、図譜にあるような精巧な体の仕組みを直接この目で見、触れることのできる喜びもありました。今振り返ると、結局この好奇心にも似た感情によって、実習を進めてきたように思えます。本来、畏敬の念をもって臨むべき実習を、未知の世界を知る喜びによって進めてしまったことは恥ずべきことかもしれません。また、実習中、ある瞬間、ご遺体を『人』としてではなく『モノ』として見、触れていたことも反省しています。
 ある人は「すこしずつ慣れてきた」と言いました。しかし、はたして私たちがご遺体に対するにあたって、また将来、患者の方々に対するにあたって、「慣れる」という表現はいかがなものでしょう。医師は患者の方々の病気や怪我の状態が最悪の場合でも、その「慣れ」によって何の感情も持たなくなるのでしょうか。TVや新聞等による報道で、患者本位でないただ病気を「診る」技術者としての医師についての記述等で、この「慣れ」というものが人の感情をいかに傷つけるのか聞いている。医学生の立場である今の私の場合は、相手がご遺体であったとしても、その人の献体を決意するにあたっての気持ちを常に忘れてはならなかったと考えます。
 この実習を通し、知識を吸収することは勿論、この「慣れる」について考えさせられました。自分の意見がすべて正しいとは言いませんが、少なくとも私は「慣れ」により何の感情もなく技術者として患者の方々に接するのではなく、感情を力に変えることのできる人間的な医師になりたいと思っています。
 
解剖学実習を通して
北海道医療大学歯学部 谷詰直穂
 解剖実習は、歯学教育に不必要という意見があると聞く。また、カラー写真や詳しい解説がついた解剖書、人体模型、コンピューターなどの映像メディア機器を使った代替教育手段を用いることで、解剖実習そのものが不必要との意見があるとも聞く。それは本当だろうか。
 たしかに、歯学は口腔とその周辺領域の学問なので、全身解剖をする必要性がないという考えはあるだろう。しかし、実際に解剖実習を行う機会に恵まれて、人体は各器官が複雑高度に連絡しあう総合体であり、体全体を学ぶことなしに歯科医療は成立しえないことを実感として学ぶことができた。さらに、実習を通して、解剖実習は歯科医師としてのアイデンティティの形成や身体へのまなざしといったいわば現代医療文化を身につけるために必要不可欠なものであるということに気が付いた。
 また、教科書は標準化された身体の記述にすぎないため、人体が工業製品であるかのような錯覚を抱かせる。ところが、ご遺体ごとの身体的特徴、故人を苦しめていたであろう病変組織や治療痕跡などは、今後我々が取り組んでいく医療は、あくまでも生身の個々の人間を対象としたものであることを再認識させてくれた。
 我々未熟な学生にとって指導教官からの一言はとても貴重である。まして、ご遺体からの無言のメッセージは心に重く響く。否が応でも我々に責任と自覚を促すのだ。私はこの解剖実習から学び得たことをもとに、医の倫理に則り、思いやりのある医療を実践できるように人格形成に努めたい。歯学・医学はもちろん医療人として必要なことを幅広く貧欲に学び、知識・技術をきちんと身に付けた歯科医師となるよう初心を忘れず努力を続けたい。
 最後に、故人はもとより、深い悲しみの中で、故人の意思を尊重してくださったご家族の方々に深謝の意を表したい。
 
解剖実習を終えて
鹿児島大学歯学部 田村卓士
 今回、我々は十二体の尊い献体のおかげで大変貴重で充実した実習を行うことができた。実習が始まる前に、実際に献体登録されている方々の生の声を収めたビデオを見せていただいた。そのビデオに登場された方々が口をそろえて言っていた言葉が非常に印象的だった。それは「死んでからも自分が何か世の中のお役に立てればいいと思って献体登録しました」というものだった。この言葉を聞いて、「献体された方の御意志を決して無駄にしないよう体のすみずみまで勉強させていただこう」と心に決め、この思いは実習終了まで変わることはなかった。
 そしていよいよ実習開始の日。今になって思うと、その日は朝から緊張していた。親類の死に直面し、実際に死体というものを見たことはあったが、今の今まで亡くなった人に触れたことがなかった。どんな感触なのだろうか、薬品のにおいはどんなだろう、という風にいろいろ考えていたことを覚えている。
 白衣に着替え、準備を整えたのち、ついに遺体出しの時を迎えた。一グループずつ御遺体を実習室の隣の部屋から運んでくるわけだが、最初のグループが運んできた御遺体を見た時、正直言葉を失った。前々から想像していたものと全く違っていたからだ。ビニールの袋に入れられた御遺体は、薬品で褐色の肌をしており、ガチガチに固くなっていた。しかしその顔を見るとまるで眠っているかのようであった。私のグループの御遺体は五十九歳で亡くなった男性で、比較的体格が良く、本当にまだ生きているかのようであった。軽く開いた口から見える歯を見ても、まだまだ生きられたんじゃないかと思えた。ところが体をよく見ると、左鎖骨部にはカテーテルの穴が、また腹部には大きな手術痕があり、生前の闘病生活の一端を垣間見たような気がした。あるグループの女子生徒がたまりかねて泣きながら実習室を飛び出して行ったが、男である私も辛くて仕方がなかった。でも逃げようとは思わなかった。献体していただいた方やその御遺族のお気持ちを考えると逆にやる気が湧いてきた。この与えられた貴重な機会にできるだけ多くのことを吸収しよう、そう思った。
 最初に背中の皮剥ぎから行ったが、実際にメスを入れるころにはもう何の迷いもなくなっていた。慣れないうちは細かい神経や血管を途中で切ってしまうことがあり、そのたびに心の中で御遺体に対して謝った。実習の開始前と終了時には全員そろって黙とうをし、御遺体に対しては常に敬意の念を持って接した。また、解剖が病巣部位に及んだ時などは、生前の辛い闘病生活が想像され、何ともやりきれない思いにかられることも少なくなかった。私のグループの御遺体は死因が胆管癌ということであったが、開腹してその状態が本に載っている一般的なものとあまりに異なっていたのにはショックを隠しきれなかった。手術によって胆のうや総胆管が切除されており、腹部全体がひどく癒着していた。動脈もそれにともなって切除されていた。外見の丈夫さとは裏腹に、体内は病魔によって確実に蝕まれていたのだ。さぞ辛かったであろう。このことで私は更なる向学心に燃えた。
 御遺体はまた、我々に本だけでは分からなかったことを数多く教えてくれた。臓器の正確な位置、感触、重さ、血管や神経の分布状態など・・・。さらには様々な変異(破格)にも出会わせてくれた。
 三ヶ月強にも及んだ実習は肉体的にも精神的にもかなりキツイものだった。時にはあまりの忙しさから、御遺体に対する畏敬の念を忘れてしまいそうになることが何度かあった。しかしそのたびに最初のころの気持ちを思い出し、実習に取り組んだ。今回の実習は解剖学の学習になっただけでなく、将来患者さんに接するに当たっての心の持ち方の学習にもなった。最後に、我々学生にその御身体を提供して下さった方々、そして献体という御本人の決心に寛大な御理解をいただいた御遺族の方々に心より御礼を申し上げ、また深く御冥福をお祈り致します。
 本当にありがとうございました
 安らかにお眠り下さい







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