日本財団 図書館


解剖学実習から学んだこと
岩手医科大学医学部 後藤 巖
 四月から約半年にわたる解剖学実習を体験して、私は普段の教室での受け身的な学習だけでは学ぶことができないことを多く得たと実感している。医師に一歩近づくと思えたこの専門課程が始まり、私の胸の中は医学の勉強ができるという喜び以上に学ばなければならない医学知識に圧倒されていた。そして、思っていた以上に厳しい解剖学実習に自分自身が負けそうになったこともある。実習を終えて初めて感じたことだが、この実習は医師に求められる五つの要素「協力・知識・技術・忍耐力・ゆとり」をきたえる場ではなかっただろうか。この五つの要素に触れながら実習をふり返り、医師というものについて考えてみたいと思う。
 まず、この実習では、「協力」ということがさまざまな面で必要とされた。グループの中で四人は作業を分担し、早く終わった者がまだ終わらない者を手伝った。また、一人では理解することができない内容をグループで話しあったり教えあったりした。このような過程で新しい友情が生まれたような気がする。医師・看護婦・作業療法士・理学療法士などの多くの人の協力なしに病院内で医療行為はスムーズに行われない。また、より良い医療のための医師どうしの協力についても同様であろう。この実習は私たちにその「協力」の大切さを教えてくれたのだ。
 次に「知識」である。どんなに人間性のすばらしい人であっても医学的な知識がなければ医師としては不適格である。実習前の講義により知識を貯え、その知識をフルに使って実習を行わなければならなかった。知識が不足しているとまちがった作業をしたり、作業の遅れが生じた。解剖の実習ではある程度許されることかもしれないが、医師として現場に出た時にこのような誤りや遅れがあったら患者さんはどうなるのだろうか。致命的な失敗を起こすかもしれない。そう考えると、医学生としての六年の間に知識を確実に増やし、医師として困らないようにしなければと思った。
 しかし、知識をつめこんだだけではよい医師とは言えないだろう。特に外科で医師には技術的な面が求められるからだ。その「技術」をきたえてくれたのが解剖学実習だった。メスやピンセットを使っての実習により、私たちは技術的な面の向上をはかることができた。
 「解剖学実習はきつい」と先輩たちから伝え聞いた通り、私にとっても非常に苦しいものだった。地下室に何時間もいて解剖するという「忍耐力」を必要とする面が最もつらかった。しかし、実習を終えてあの苦しい体験は今後大いに役立つものだと思う。外科医を例にとるならば、何時間にも及ぶ長い手術の間精神を集中させねばならない。そのための忍耐力も養うことができたと思う。
 最後に、医師に求められるもの、それは「ゆとり」ではないだろうか。忘れられがちではあるがこれは非常に大切なことだと思う。「ゆとり」がないと自分がやろうとしていることを十分に成就することができないだろうし、患者さんに不安感を与えてしまうことになるだろう。忙しい実習の中でも心に「ゆとり」を持って物事に取りくむことを学んだような気がする。
 今、解剖実習が終わって解剖学はすべての医学科目の根底を成しているのだということを感じた。少しの後悔はあるがすばらしい体験をさせてもらったと感謝の気持ちでいっぱいである。献体をしてくださった方には心から御礼を申しあげたいと思う。
 一人前の医師になるにはまだ長い道のりではあるが、自分の夢を実現するためにこつこと勉強していきたいと思う。
 
解剖学実習を終えて
秋田大学医学部 小林祐子
 この三か月間、時間的にも精神的にも、解剖学実習が私の生活の中心を占めていました。終わってみると、時の流れがとても速かったように感じます。常に成すべき課題や考える事柄があり、一日一日を必死に過ごしていたからかもしれません。
 いよいよ実習が始まるという日、初めて御遺体と対面したときの、御遺体の穏やかなお顔がとても印象的でした。今まで死体というものを見たことのなかった私には、やはり不安な気持ちがあったのだと思います。しかしそのお顔は、これから学んでいこうとする私たちを励まして下さっているようであり、私たちを通して多くの人々に貢献したいとお考えになったであろう故人の御意志に報いることができるよう、精一杯頑張ろうと強く思いました。
 実際に実習をさせていただいて、本物のお体を拝見することが人体の構造の立体的なイメージを、予想以上に納得させてくれました。一つの細胞からこの複雑で素晴らしい人体が形成される神秘も、肌で感じることができました。そして誤解があってほしくはないのですが、ある意味で人体ヘメスを入れることへの漠然とした抵抗感が取り除かれたように思います。医療に携わる者として、人体の神秘性をただ崇めるのではなく、科学的な視点に立つ身体観を持つことも必要だと思うのです。解剖学実習はその最初の助けになったような気がします。
 実習からは、本当に多くを学ばせていただきました。しかし振り返ってみて、やはり私は、罪悪感をも抱かずにはいられません。もちろん実習中は、全力で取り組んでいるつもりでした。それでも体力的につらくなってしまった時、集中力が切れていたことは否めません。そして本当につらくなる前に、どこかでかわしてしまっていたのではという気がしてくるのです。自分を追いこみ切れなかった弱さを痛感します。
 そのような入り組んだ様々な思いの中にも、人体を解剖させていただくという行為の重さが、医学を志す者としての責任を自覚させてくれました。最後の黙祷を迎えたとき、何よりも実習を可能にして下さった故人への感謝、あまりに未熟な私たちを精一杯導いて下さった先生方への感謝、そして常に私を支えてくれ、共に励んできた班員とクラスメートヘの感謝、と同時に反省の思い、と本当に多くの感情が頭の中に押し寄せてきました。その気持ちは、時が経っても変わらず私の中にあります。貴重な実習で得たものを今後の生活や学習に活かし、故人の御意志に沿えるよう、より多くの人々の役に立てる医師を目指して、努力を続けていきたいと思います。
 
解剖学実習を終えて
日本大学歯学部 小山恭子
 先日、解剖学実習を終了した。実習開始当初は正直、亡くなった人間を解剖するというのが怖く、気後れしていた。しかし実習を進めていくにつれて考え方も変わり、当たり前のことだが、献体してくださった方のためにも、自分のためにも真剣に取り組みたいと思うようになった。実際、人体の構造を自分の目で見ることはとても興味深く、楽しく学べた。
 実習の内容に関しては、やるべき範囲が多いため毎回大変であったが、事前に予習をし、テストを受けたところを自分の目で確かめることができて、とても有意義であったと思う。やはり、文献や資料で見るのと、実際に自分で臓器や組織を剖出するのでは感覚がまったく違った。実際手を動かして学ぶほうが、鮮烈に頭に残った。また、人体の構造の複雑さや緻密さを知り、外科処置などは相当困難なことなのだと実感した。将来、外科処置を行うかどうかはわからないが、どんな治療でも真剣に、正確に行わなくてはいけないと思い直した。
 実習中は、その内容以外にも、人間というものについて考えることも多かった。解剖学実習の初日、解剖台の上に横たわっていたのは普段見慣れた人間の姿をしていたものだった。解剖を進めていくと、人体が段々と部品に分けられていくような気もしてきた。人は死んだらモノになる、という誰かの言葉を思い出した。生も、死も何か現実を超越したもののように思っていたが、生体機能の低下による生命活動の停止が人の死なのだと素直に思った。そしてなんともいえぬ、切ない気持ちになった。どんな感情、行動も、すべてが脳やら神経やらがつかさどっているのかなと思うと、先が見えてしまったような気がしたのだ。しかし、やはり命はかけがえのないものである事にかわりはない。「命」というものの見方に対して広がりと深みを実感した。今回の解剖学実習で知ることができたのは人体全体のごく一部である。しかし、それでも得たものは大きい。今後、医療人として生きていくうえでも、一人の人間として生きていくうえでも、今回得た技術、知識、また感じた思いなどを生かしていきたいと思う。
 最後になりましたが、献体してくださった方、またその御遺族の方々に深く感謝します。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION