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解剖学実習を終えて
北里大学医学部 川井正隆
 医者の道を志すものにとって避けては通れない実習である解剖学の実習を終えるにあたり、今回の実習が私にもたらしたものは非常に大きいものであり、また、貴重なものでした。人体の構造を学ぶことは医学の道において必要不可欠なものですが、知識としてではなく実際に実物のご遺体を解剖させていただくことで、よりいっそうの理解を深めることができたと私は確信しています。しかし、この、理解も献体していただいた方の善意とその家族のご厚意がなければ決してなし得ることはできなかったことはもちろんのことです。ご自分の体を死後見ず知らずの学生に解剖させること、これはよほどの事がなければできないことだと思います。実習前、献体していただいた方の生前のメッセージを先生が紹介してくれましたが、その多くは自分を病から救ってくれた医師への感謝でした。これを知ったとき、医師が患者に対して持つ影響力の大きさをまざまざと痛感しました。知識の習得はもちろんのこと、医師として、人としての心のあり方を学ばねばならないことをも同時に心に誓いました。
 また、純粋に人間の体と構造について感動しました。あらためて体の複雑さと神秘さ、そして、巧妙さに驚きました。進化の過程を考えざるをえず、それが発生学に、ミクロなところでは、組織や細胞とのむすびつきで、組織学と、それぞれ頭の中でむすびつけていくのは非常に楽しく、うれしいものでした。人の体をいろいろな角度からみることで、よりいっそうの学問的探究心を私にもたらしてくれました。
 二年生における解剖学実習は大学の医学部に入り、はじめての医学部らしい実習であり、もっとも大事なものでした。あらためて生命の偉大さを知り、それを扱う職業に自分がいつかなるための大きな転換点だったかもしれません。このような素晴らしい機会をもてたことに、いや、持たせてくれた献体していただいたご本人とそのことに深い理解をしめしてくださったご遺族に多大なる感謝を述べたいと思います。大変ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。
 
献体に感謝して
自治医科大学 神田真由紀
 やせていて、小さな体。足は曲がった状態のままで、床擦れもできているから寝たきりのおばあちゃんだったのかな。そういえば、私の亡くなった曾祖母もこんな体勢のままだったなぁ。でも、どうして献体して下さったのだろう。いずれにせよ、このおばあちゃんとその御遺族の方の勇気や御好意を無駄にしないよう、一瞬一瞬を大切にし、毎回の実習に一生懸命取り組もう。私が初めて御遺体を目の前にした時考えたのはこんなことだったのを覚えています。
 医学部に入学した当初、夢であった医師という職業にようやく一歩近づけたという期待や意欲と共に、本当に私はきちんとやっていけるだろうかという不安な気持ちを抱えていたのも事実でした。私には医療に携わっている身内がいないため、医学部に入学してからのことは、うわさとして友達や先生から聞いたことや、本で読んだりしたことから得た想像の世界でした。そして、いつも耳にするのは解剖のこと。それだけ、なくてはならぬ重要な科目ということなのでしょうが、自分と同じ人間を、自分の手で解剖するというあまりにも非日常的なことに、私は不安と恐怖さえ感じていました。
 実習が終わった今、あの頃の私は献体して下さった方々やその御遺族の気持ちより、自分が解剖するという行為の方ばかりを考えていたことに気づき、また自分の愚かさにも気づきました。御遺体に対して感謝の気持ちを持っていれば、何も恐れる必要はなかったはずなのに・・・。自分の遺体を医学教育のために寄贈する献体はとても勇気のいることだと思います。しかも無償で行うことは、究極のボランティアであり、私達医学生にとってはもちろん、社会にとってもこれ以上の善意はないと思います。そして、御遺族の理解もすばらしいものだと思います。きっと御遺族にとって、大切な家族の御遺体は、他人にメスを入れてほしくない、傷つけてほしくない、と思うこともあるでしょう。しかし、献体ということに理解を示し、同意して下さった御遺族には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。もちろん献体して下さった御本人にも、心からありがとうございますと言いたいと思います。そして敬意を表したいと思います。
 解剖実習は、知識や技術の面だけでなく、さまざまなことを考え、学ばせてくれるものでした。実際、実習が始まると、初めて御遺体を目の前にした時の実習に対する私の心構えは甘かったということに気づき、膨大な知識の量、剖出したいものをうまく剖出できない難しさ、もどかしさ、やり切れなさに、自分の無力さ、未熟さを痛感するばかりでした。そんな時、先生の丁寧な説明や班員の協力に助けてもらい、チームワークの大切さを実感しました。お互い足りないところを補い合い、ベストな方法で協力して取り組むことは、今回の実習に限らず、これから私達が医師となって患者さんに対して接するときも重要なことだと思います。また、今まで考えることが少なかった「死」ということについて、ぼんやりとではありますが、自分なりに考える機会を与えてもらいました。もちろん、教科書では理解し難い人体の緻密な構造も、自分の手で剖出し、自分の目で見ることにより、理解しやすくなりました。この手で心臓を持ち、小さいわりに何だかずっしりとくる重さや、全身に血液を送るための心筋の厚さや血管の太さに、ヒトの生命を維持するための力強さを感じました。また、手を解剖している時、まるで握り返してきそうなあの感触を私は一生忘れることはないでしょう。このように、御遺体さんは初めての「患者さん」として、また最高の「先生」として、無言ではありますが、教科書では学べないさまざまなことを私達に教えてくれました。
 実習を行っていた半年間、大変なこともあったけど、私は今までで一番有意義な時期を過ごせたと思います。私はどれほど多くのことを、そして他では決して学ぶことのできない大切なことを教えてもらったことでしょう。このような時期を過ごせたのも、献体して下さった方々や御遺族の善意のおかげです。今回の貴重な経験を生かし、医師になってからも患者さんや介護する家族のことを第一に考え、誠意と真心を持って接していくことを忘れず、日々努力することで私なりの御礼ができればと思います。
 こんな技術的にも、精神的にも未熟な私に、半年間も付き合って下さってありがとうございました。果たして、おばあちゃんが教えようとしてくれたことを私はすべて吸収できたでしょうか。私は合格点をおばあちゃんからもらえるでしょうか。実習最終日、こんなことを考えながら黙祷を捧げ、最後のお礼を言わせていただきました。
 
『無題』
千葉大学医学部 木本龍太
 白菊会の方々のお話を聞き、御遺体と対面し、解剖し、納棺した。
 白菊会の方々を目の前にしてお話を聞いた直後の御遺体との初対面は、ものすごく緊張した。ただでさえ遺体を見たことは数回しかなかったのに、自分がこれから解剖することになる御遺体が目の前にあり、その御遺体は、さっきまで話を聞いていた方々の同志である。緊張しないはずがない。とにかく始めは緊張でいっぱいいっぱいだった。そんな中、切皮から解剖学実習が始まった。
 夢中で切皮をしている内に、緊張の質が変わっていった。始めの内の緊張は、単純な、人間を解剖することに対する緊張感。それが、学ぶことへの緊張感に変わっていったのだ。
 私は二日目以降、解剖学実習の始まりの黙祷において、御遺体に対して感謝と敬意を示すだけでなく、「今日は・・・を学ばせていただきます」と、御遺体に対して逐一報告をするようにしていた。それは、御遺体は最大の先生である、という森教授の教えに共感してのことだった。きちんと御遺体に学んだことを報告するために、予習復習に熱が入った。また、御遺体に対して毎回学ぶ内容を報告することにより、御遺体と会話をしているような気持ちが生じ、実習に対する緊張感を高く維持できた。私にとって、実習前の数分の黙祷はとても大切な時間だった。
 解剖学実習は、納棺式をもって終了した。棺の中には、煙草と、書き込みのあるお経が入っていた。御遺体の生前を思った。不思議な気持ちになった。なんだか御遺体が今初めて他界して御遺体になったような気がしたのだ。納棺するまでは、目の前の御遺体は「生きた先生」のように、自分も知らない間に感じていたのだ。
 解剖学実習を通して、私は一人の貴重な「先生」と出会い、別れた。「先生」は私に解剖学的知識はもちろん、他にもいろいろなことを教えてくれた。その全てを総合して、私は解剖学実習を通して初めて本格的に、医学と出会うことが出来たと思う。







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