日本財団 図書館


解剖学実習を終えて
獨協医科大学 金子 恵
 初めてご遺体を目の前にした時、思わず涙が出てしまった。2年生の半分を終えた頃、私は、本当に医学部に入って良かったのだろうかと悩んでいた。大学をやめてしまう事も考えた。そんな情緒不安定な時の私にとってご遺体というものは実に衝撃的だった。その後、母や姉に相談して実際に解剖実習を始めてからは、ずい分精神的にも安定してやる気も十分にあった。
 解剖実習によって得た事は多数ある。解剖的な知識については、まだ自分なりに消化器系・循環器系・泌尿器系など系統別にまとめなければならない。始め抵抗感のあった臓器や血管にも慣れる事ができた。医学部に入る以前に姉が持っている写真の解剖書を見た事があったが、今見直してみるとなんてきれいに剖出されているのだろうと感動するほどである。どんな臓器がどこにあって、どんな神経や血管がどこにつながっているのかを剖出することは、未知の三次元の世界を発掘していく様で本当に難しかった。解剖学実習は講義や教科書では得られない立体的な視野での勉強が出来る唯一の機会であったと思う。また、腎臓の統計をとる事によって個体による形や大きさの差、医学にとっての統計学の重要さを理解した。28体のご遺体のうち、15体のご遺体が左腎より右腎の方が上位にあったという結果になったが、まだ決定的な理由は解っていない。
 最後にご遺体を提供して下さったご本人とご遺族の方に感謝の気持ちを述べたい。ご遺体は私達に解剖学を教えてくれる貴重な存在である。この先私達が医師になって患者さんを診る時、様々な神経や血管や臓器が解るのはご遺体を提供して下さった方々のおかげであることを忘れてはならない。
 
解剖実習を終えて
岩手医科大学歯学部 鎌田 俊
 命の大切さ・・・、命の重さ・・・、大学に入学して、医療に携わる者として散々・・・教えられ理解し、自分自身分かっているものだと思っていた。
 解剖実習を終え、ふと、今迄の自分の中で存在していた「命の価値」は恥ずかしい程に軽いものであったのかもしれない。
 一人の人が一生を終え、本人と遺族の善意の心だけで私に学ぶ事を与えて頂き、そして我々が一生、背中に背負い、心に留めて生きていかなければならない「命の価値」を教えていただけた事に感謝し、無にしては絶対にダメだと自分に誓いたいと思う。
 近年、医療事故が多々表沙汰になっている。医療する側は偶発的であるとか、突発的である・・・と、言い訳をしているが、まず失敗した事に全身全霊で謝罪する気持ちが大切であると私は思う。
 医療には限界もあり、最善を尽くしても無理なこともある。しかし、医療する側が最善を尽くし最後まで諦めずに命を救おうとする気持ちを持ちながらも成就しなかったら・・・医療を受けた本人にしても遺族にしても納得がいくのではないだろうか。
 「名医にはなれないかもしれないが、良医には努力を怠らなければ誰にでもなれる」と、教えてくれた先生達の教えを将来医療現場に立つ我々は忘れずに、日々精進しなければならないと思う。
 傷を治すだけが良医ではない。患者の心の痛みを理解し、患者と同じ「目線に立つ」ことができる医者が良医なのではないだろうかと私は思う。
 献体して頂いた方と遺族の方々の善意によって「命の価値」を学ぶことができたことに感謝して、学んだことを一生忘れずに医学を学ぶことを誓い、努力することを怠らずに日々精進して私は良医になれるように常に前進したいと心に決めました。
 
解剖学実習で感じたこと
北海道医療大学歯学部 亀山睦子
 解剖学実習を通じて、私はいろいろなことを考えさせられた。私は人体の構造、機能に興味があったので期待をもってのぞんだ。実習の開始を迎え、最初に感じたことは命についてだった。自分が生きているという実感を、摂食や睡眠という日常の当たり前の行動に感じた。そして死については、死を自然の摂理としてとらえ、死への恐怖が少なくなったと感じた。それとともに死を不思議だとも思った。動いていないから死、代謝していないから死。理屈では分かってはいても、器官もそろっている人間なのに死んでいるという不思議。実習は生と死の対話だという印象だった。
 実習が進むにつれ、私の考えることも変化していった。人体の構造について、人間はみんな同じだという驚き。しかし、一方、個々により違うという驚きがあった。筋、骨、神経、内臓まで一様に同じ構造をしていることの驚き。すべての組織、器官がそれぞれ調和し合って機能するようにできている。無駄のない、計算し尽くされたかのような構造は、自分も同じ物をもっているという喜びにも似た気持ち、ヒトであるという実感すら感じさせた。また、他の班に見学に行くと、骨、筋、内臓の大きさ、形に個体差があることも驚いた。同じ人間だけど、性格や外見だけでなく身体の内容の一つ一つをとっても個性があることを教えられた。
 解剖学実習は、これから先、一生できないであろう貴重な経験であり、医療人としての出発点となるものだ。この実習を通じて、医療人になる者としての自覚も生まれた。どんなものか見てみたかった神経も見ることができた。とてもいい実習だった。解剖体には生物学的な生命はないが、解剖体はまさに私達には「生きた教材」だった。このような機会を与えてくださった献体された方々に感謝の気持ちで一杯である。
 
人体解剖学実習を終えて
鹿児島大学医学部 川井田啓介
 漢代の史官、司馬遷が生き恥をさらして記したその著書「史記」には、一つの根本的な命題が貫かれているように思われる。「人間とは何か」。司馬遷はあらゆる人物の典型を網羅することで、人間という存在についての説明・言及に代えたのではないか。
 この冬私が体験した人体解剖実習においても、二千年のときを隔て、知識の量も限りなく増大しているものの、問われているのは同じく「人間とは何か」だった気がする。単純に、解剖学を「人間についての形態的な説明」ということもできるが、やはりわたしには、背負うものの大きかったこの実習中に感じた様々な疑問はすべて「人間とは何か」という二千年前と変わらぬ命題につながるものだったのではないかと思われる。
 医学に期すところあって、死後、その身体を献体する。固定され、腐乱という自然な時の作用を拒絶しているご遺体が発する問い掛けは強烈極まりなく容赦なかった。我執とは何か、魂魄とは何か、意志とは、使命とは、宗教とは、公徳心とは、身体とは。科学とは何か、言語とは、知識とは、また知識はどのように獲得されるのか、整理・分類という作業の意義について。有象無象、種々雑多な疑問を抱きつつ行ったのが解剖実習だった気がする。
 篤志家の方々の文字通り献身的な協力のうえに医療が成り立っているのを見るに、改めて医師という職業の社会的使命・責任の重さを噛み締める。また、医師というプロフェッションが、その医学的知識、専門技術にのみ拠るわけではなく、仁術と称するようにその人間性も問われることを考えると、知識の習得の段であくせくしている自分の道のりの遠いことを思わざるを得ない。
 私の解剖学的知識というものは、まだまだ単線的で、消化不良の観が強い。予感としてあるのは、今後の医学科学習の中で、今回覚えた解剖学用語・人体の局所部位についての名称が、十分な意味を持って立ち現れてくるだろうということ、そしてそのとき、網膜に焼きついたまま離れない、あの五班のご遺体が甦り、活き活きと人体の機能的な構造を語りだすだろう、ということである。
 最後になりますが、今回の人体解剖実習が多くの方々のご協力のもとに成り立っているものであることを深く銘記したいと思います。指導の先生方はもちろん、技官の方々、実習生の見えぬところでご遺体の確保に日夜奔走されている多くの方々、そしてなにより長い人生の最後に自身の身体を私どもの実習に使用させてくれ、貴重な体験をさせてくれた篤志家の方々に感謝の言葉もありません。有能な医師、立派な医療人になることが私にできる唯一にして最大の謝辞ではなかろうかと思います。頑張ります。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION