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お別れの言葉
福島県立医科大学 安藤 等
 果てしなく続くと思われた解剖実習も、気付いてみればあっという間に時が過ぎ、お世話になったご遺体ともお別れの時がやってまいりました。実習が始まったころはまだ汗ばむほどの陽気でしたが、今日は私達の心を代弁するかのように静かに雪が降っています。
 命はまさに奇跡です。はるか昔より、その奇跡は途切れる事なく伝えられ、さまざまな物語を繰り成してきた事でしょう。ひとつとして同じ色の無い糸が織り上げたその物語りは、なんといとおしいことでしょうか。
 しかし我々は、そして我々を取り巻く社会は、その事実を果たしてどれほど理解しているのでしょうか。今、メディアには尊い命が無味乾燥な数字に置き換えられて氾濫しています。「本日の死亡者数はうんぬん」と言ったように。それは自分達の手の届かないところで生じていることとはいえ、いつのまにかそんな日常に慣れてしまった自分がありました。
 解剖実習が始まりご遺体と対面したときのことは、生涯忘れ得ぬものとして深く心に刻まれています。そこには、黙して語らずといえど、単なる数字のひとつではない、はっきりとした意志と私達に対する信頼が存在していました。それは私をまっすぐに突き刺し、戸惑いにも似た感情が生じました。しかし、献体くださった方々が、まさに身をもって伝えようとしたその意志は、常に暖かく私達に語りかけ、時に叱咤し、時に励ましてくれました。そして解剖実習を終えた今、今さらながらに命の重さを双肩に感じています。そのいとおしさを思うと、私は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、切ない気持ちで一杯になるのです。
 私達はあなた方より授かった命のたすきを次の走者に伝えてゆく決意を新たにしています。あなた方が私達にそうして下さったように。
 「贈られし 命に学び 新たなる いのちつむがゆ われ医学生」
 この歌を以って、献体くださった方々への感謝の言葉とかえさせて頂きます。ありがとうございました。
 
解剖学実習を終えて
東京慈恵会医科大学 池田梨奈
 解剖学実習を終えて、今振り返ってみると、この実習はまさに「医学への入口」と言うべきものだったと思う。医師を志し医学部に入学してから、自分自身の夢を一番強く実感させる最初の実習だった。
 初日、献体された御遺体と向き合った時、この瞬間は、やはり衝撃的であった。これから解剖させて頂くこの御遺体も、以前は私たちと同じように温かく、そして様々な経験を積み、色々な事を感じる一人の大切な人であったと思うと、正直複雑な気持ちであった。一体目の御遺体は女性の方だったが、ふとその左手の薬指(「環指」と表現すべきか)にある指輪の跡を見た時、この方の死を悼み、涙を多く流された御家族のお気持ちを痛感せずにはいられなかった。それだけ自分たちが大切な御遺体をお預かりしているということであるから、一生懸命この実習に取り組んでいこうと心から感じていた。
 その時からの時間の流れはとても早く、思えばあっと言う間に解剖学実習の期間が過ぎていった。その間、私はどれだけのものを学び、何を得たのだろうか、と考えると、この実習で得たものは単なる医学の知識ではないだろうと思う。献体して下さった方がどういう人生を送り、何を思い、どの様ないきさつで献体を決意して下さったのか私には全く知る術もないが、それでも一つだけはっきりと確信できることがある。それは、亡くなった方がこれからの医学に希望を託し、一人でも多くの医師が誕生すること、少しでも良い医療が実現することを心から願っていたであろうという事実だ。現在の世の中、「医者なんて駄目だ」とか「今の医療はいけない」と一言で片付けてしまう人も多いにも関わらず、献体して下さった方々は医療の発展、前進を思って貴重な身体を提供しようとお考えになったのだ。このことなくして医学生の勉強は成り立たない。私は自分の置かれた立場を認識し、医学生であること以上に一人の人間として医学と向き合っていくことの重要性を感じた。
 これから先、私が学ぶべきことは多い。その膨大な知識に押し流されることなく、人としての思いやりや気遣い、感謝を忘れずに、良医となれるよう様々な面で成長していかれる努力を積んでいこうと思っている。献体して下さった方、そして先生方に厚く御礼申し上げます。
 
解剖学実習を終えて
神戸大学医学部 伊敷一馬
 医学部に入学するにあたって初めに考えたのは解剖学実習についてでした。医療に携わるのなら避けては通れないものでしたが、近い将来、自分がこの手で行うことができるのかと不安に襲われました。
 実習初日、寺島先生から「死者への畏敬の念はもちろん忘れてはならないが、純粋な科学への興味を持って実習にあたってもらいたい」という旨の話を頂き、いよいよ実習室へ移動することになりました。私が恐れていたのはまさにこの瞬間でした。解剖台の上に並ぶ人の形をした袋を見たとき、自分はどうにかなってしまうのではないかと思いました。しかし、袋を開け、ご遺体を目にしたとき、不思議と安心感がこみ上げてきました。どういうわけか恐怖心はなく、私に、おそらく生涯で一度しかない学習の機会を与えてくれた故人への感謝の念がこみ上げてきました。
 いったん実習が始まってしまうとあまりに時間が少なく、忙しさのため感慨にふける暇はありませんでした。実習書を読んではご遺体を見る、この反復作業の中で、私は夢中に何かを吸収しようとしました。時には疲れがたまって集中力が続かず、パートナーに迷惑をかけたこともありましたが、そのときできる全力で実習にあたったと思います。そこでは説明で聞いた以上に精巧で機能的な人体があり、何度も驚きと興奮を覚え、寺島先生が初めに言っておられたことを実感しました。
 初めはこれほど過酷な毎日がこれからずっと続くのかと、気が遠くなる思いでしたが、始まってしまえば意外と早く終わってしまった、というのが実感です。実習最終日、納棺のときには、本当に学び尽くしただろうか、故人は本当に納得してくれているだろうか、といろいろな思いが胸に浮かびました。納棺を終え、実習室を清掃し、寺島先生から「この実習中、君達はつらかったこともあったと思うが、のじぎく会篤志の方々、大学関係者など様々な方の苦労と厚意あってこそ実現したものであることを忘れないで下さい」との話を頂き、まさにその言葉を実感しました。長い最後の黙祷の間、心の中で故人に感謝の言葉を唱えました。
 実習を終え強く感じることは、何の障害があろうとも、自らの体を私たちに提供して下さった故人のためにも医学の勉強を途中で投げ出してはならない、ということです。これが今の私の率直な想いです。
 
解剖学実習を終えて
東京医科歯科大学医学部 石場俊之
 私は祖父が献体を行っていたので解剖をやることになった時に第一にそのことを考えた。私の祖父も私と同じような全てが初体験な人に解剖されたのであろう、と。私が御遺体の前に立った時、どう御遺体と接したらいいのかわからなかった。まずどこを見るべきなのかわからなかった。顔を見るべきなのか、胸だろうか、手だろうか、床だろうか。顔には御遺体がそれまで生きてきた人生を語る深い皺が刻まれていた。手もその長い人生をありありと物語っていた。その衝撃的な対面の後、黙祷を行った。黙祷とは何を思うべきなのだろう。私は何を考えていたのか覚えていない。多分御遺体に対して、一生懸命勉強させて下さい、みたいなことを考えていたのだと思う。実際解剖を行ってみて、感じたことは人体の素晴らしさ、尊さである。人体の何と複雑なことか、本では綺麗に解剖がなされているが、実物はそんなに単純ではないことを思い知らされた。またこの御遺体が自分の何倍も生きていたということを考える度に、その重圧に潰されそうになる。
 私は祖父が献体をしたので献体をなさった家族の大変さが少しわかると思う。故人が亡くなってすぐにまた御遺体と離れなければならない辛さ、遺骨もなしに一年も待たねばならない寂しさ。故人と遺族の方には感謝してもし尽くせない。この感謝の意を医学の勉強に励み、立派な医者となることで、これから先示していきたいと思う。







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