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■挨拶
解剖・献体・人間愛 順天堂大学医学部解剖学第一講座 教授 坂井建雄
 解剖学の基本は、人体を自分の手で解剖し、自分の目で観察することです。解剖学という学問をよく理解して解剖・観察すると、人体の構造が実によく見えてきます。さらに理解を深めていろいろな疑問を持って解剖・観察すると、それまで知られていない新しいものも見えてきます。
 さて、人体を解剖するということには、人体の構造を観察・発見するということの他に、もう一つ重要な意味があります。人間とは何か、人間という存在そのものを知る・学ぶということです。メスとピンセットを持つ解剖者と、解剖されているご遺体の間には、科学者と研究対象という乾いた関係をはるかに越えた、深く重たいものがあります。片方はたまたまご自分の意志で解剖台の上に横たわり、もう片方は故あってその身体にメスとピンセットを振るうわけですが、本来は対等な人間であるのです。
 医学を学ぶ者にとって、人体を解剖することがきわめて有意義なことであること、それはヴェサリウスによる1543年の歴史的な大著『ファブリカ』以来、誰もが認めるようになりました。『解体新書』を皮切りとして西洋医学が日本にもたらされ、明治政府によって西洋医学が本格的に導入されると、人体解剖は医学教育の根幹として広く行われるようになりました。
 さらに人体解剖は、医学教育の重要な一部であるのみならず、社会との間にも大きなつながりを持っています。一つには献体運動、これは昭和30年代から人体解剖のための遺体の不足を憂えた人たちによって始められ、篤志解剖全国連合会を中心に数多くの篤志家と解剖学者の努力により大きく発展し、現在では医学教育に用いられる解剖体の大半が献体によって提供されるようになっています。
 もう一つは、人体解剖あるいはそれに準ずる人体体験の機会を医歯学生以外の人たちにも提供して欲しいという根強い要望です。看護士などコメディカルの教育を受けている人たちにも、人体内部を実際に観察して人体構造の具体的なイメージを掴んでもらいたいものでありますし、また現実に多くの人たちが見学などの形でそのような機会を得ています。理学療法士や作業療法士のような職種では、自らメスとピンセットを持って解剖することがとくに望まれています。また一般の人たちも、人体内部の構造に強い関心を持っています。1995年に国立科学博物館で開かれた特別展「人体の世界」には、プラスティネーションによる人体解剖標本が多数展示され、そこに46万人もの来場者が訪れました。その後に商業べースで行われたプラスティネーション標本展にも多くの人が訪れているようです。
 21世紀という時代に、人体解剖は医学教育の根幹であり、かつまた社会とのつながりも深めようとしています。その時代において、人間が対等な人間の身体を解剖するという人体解剖の根元的な意味を、今一度問い直し、再認識する必要があるのではないか、と私は強く感じています。
 人体解剖の根元的な意味とは何か、それは人間愛であると私は思います。「献体」は無条件・無報酬で自らの遺体を捧げる篤志行為であります。ハイデルベルク大学に1912年に留学された西成甫先生は解剖学教室の玄関に「ここは死が生に助力を与うる所である HIC MORS GAUDET SUCCURRERE VITAE」という言葉が掲げられていると手記に書いておられます。順天堂大学の解剖実習室には、「死の中の真実、生のもたらす喜び」という言葉を掲げています。
 人体を解剖することを許される人間は、自らの遺体を提供する篤志家からの大きな愛を受け止めます。この文集に掲載された感想文の多くは、医学部・歯学部に入学して初めて人体解剖を行った学生たちのものです。彼らは、医学部・歯学部の教育課程の大きな関門としてこの解剖実習をとらえ、それを乗り越えて一人前の医師・歯科医師として成長していきます。また大学によっては、高学年になって再び解剖実習を行ったり、コメディカルの学生のために解剖見学や解剖実習の機会を提供したり、さらに学部の教職員・大学院生のために解剖実習のセミナーを開いているところもあり、解剖実習の場は広がりつつあります。
 もちろん、大学によってどのように解剖実習を行っているかは、いろいろ差がありますが、献体者の方たちに対しては、それぞれの大学ごとに十分な情報を提供していただくようにしています。とはいえ、他の大学でどのような解剖実習が行われているのかを知る機会は、あまり多くありません。そこで今回の文集では、医学部の低学年の学生のみならず、解剖実習に参加した多様な人たちの感想文を寄せていただき掲載することにしました。日本全国にはいろいろなタイプの解剖実習がまだあるようですが、この冊子に寄せられた感想文からだけでも、わが国の献体運動が、どれだけ多くの人たちにその人間愛をもたらしてくれているかを読みとっていただけるのではないかと思います。







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