九州櫨の木物語・・・写真と文・江口 司
一、久留米の「伊吉櫨」
わが国は 筑紫の国や 白日別(しらひわけ)
母います国 櫨(はぜ)多き国
この歌は、『海の幸』や『わだつみのいろこの宮』の作品で知られ、明治四十四年二十八歳で夭折した久留米出身の画家・青木繁が、異郷の地で病の床に伏し、故郷を思い、母への思いを詠んだものである。
「櫨多き国」のわが国「しらひわけ」は、筑紫の国・北部九州を指す枕詞だが、櫨の木は日本の中でも九州全域が主たる植栽地だという。
「櫨多き国」の歌碑は、久留米市から大分県日田市にかけて三〇キロほど屏風のように連なり、幾条ものの流れを筑後川に注がす水縄(みのう)連山のかぶと山の項に建っている。かぶと山は別名「けしけし山」とも呼ばれ青木繁がこよなく愛したふるさとの山だ。そこから見下ろす筑後平野にかけての山麓では、現在も櫨の並木が残り、晩秋の頃には紅葉が照り映える風物詩となっている。
訪ねたのは二〇〇二年十一月二十三日、久留米市山本町の柳坂曾根の櫨並木は、十数年ぶりの強い寒波の来襲で例年になくその紅葉を誇っていた。曾根とは川筋の堤の名称で、筑後川に注ぐ川筋が多いこの地方では曾根もその数だけあるということになる。そこに江戸時代の久留米藩が櫨を植えたのがはじまりであった。現在ではこの柳坂曾根の並木一キロにわたって樹数約二百本が町民の努力で残されている。天気もよかったので観光客も多く一キロの並木を行き交い、立ち止まってはしきりにカメラのシヤッターをきっていた。並木の西側はとうに刈り取りを済ませ稲藁を焼いた跡がほくろのように所々にある田が広がり、並木のにぎわいとは対照的な風景だった。夜は久留米市主催のイベントがありライトアップされるという。
二十四日の早朝、再び柳坂曾根の櫨並木を歩いた。前日の喧噪さとはうって変わり、櫨の木には数十羽のカチガラスの群れが、観光客がやってくる前にツートンカラーのオシャレなスタイルで我が物顔に櫨の実を啄んで(ついばんで)いた。その好物の実は「伊吉櫨」と呼ばれる品種で、小郡村(現福岡県小郡市)の農民・内山伊吉(享保十五年〜文化十一年)によって品種改良されたものだという。そのもととなったのは「松山櫨」で、これを作り出したのは久留米藩から検分方下役という士分格をもつ竹野郡亀王村(現浮羽郡田主丸町内)の大庄屋、竹下武兵衛(元禄十六年〜天明元年)であった。
竹下武兵衛は『農人錦の嚢』を寛延三年(一七五〇)に著している。その書は農文協刊「日本農業全集三十一」に所収されていて、その現代語訳と解題を書かれた古賀幸雄氏の文から要約して引かせてもらう。
「私は農家に生れ若いころから農業のあい間に実のなる木を植えてきた。最近、蝋をとる櫨の木の種子が他国から渡ってきた。はじめ薩摩地方に植えたところ、暮らしに役立つ木とわかり、近くの国々でも植えはじめるところが多くなった。最初は生育のよくないものもあったが、方々から高価な良木を買い求め、年々多くの労力をかけて接ぎ木した結果、今数万本にふえている。苗木を移植する場合は、土地が肥えているかどうか、木の太りぐあいはどうかをみて、時節に応じて適切な施肥をすれば、必ず生育がよく、みごとに結実するものである。経済上有益な点ではこの櫨にまさるものはない。どこの家でも我れ先にと争って植えているが、栽培法を間違えれば「木から魚をとろうとする」ようなもので。そこで、私が多年の体験から学んだ成果のことを書き、同士の人々の手助けをしようと考えたのがこの書である。櫨は、春には黄金のような花が咲き、秋には紅葉が地に映えて錦のように美しい。その実がよくなれば、袋の中から金貨をとりだすようにたやすく富を手に入れることができる。そこでこの書に『農人錦の嚢(ふくろ)』と名づけた。」と序文に書き、三十項目にわたり細かく記している。
久留米藩では、先の書から推測するところ享保十五年(一七三〇)頃から櫨の栽培が試しみられたようである。竹下武兵衛ら農民の努力で生み出された錦の嚢の金貨は、享保十七年(一七三二)の大飢饉とそれをきっかけとした藩の財政破綻から、二度の農民一揆につながり、真に農民の金貨となりえたのはそれから百二十年後の幕末以降であったようだ。久留米といえば久留米絣が有名だが、廃藩時の主要品目生産高を見ると、紺絣九万両に対し蝋三十六万両と、櫨の木が生む蝋がいかに藩制を支える産物であったかを物語っている。それに伴い蝋を商う業者も生れ、竹下武兵衛の郷里に近い農村地帯の吉井町は、その蝋屋の益金が金融市場に流れて「吉井銀(がね)」を生みだし、白壁の土蔵商家の町並みが生れたともいう。
けしけし山山頂にある青木茂の歌碑
柳坂曾根の櫨並木とけしけし山
カチガラス(カササギ)
伊吉櫨
また、『農人錦の嚢』が著される三年前になる延享四年(一七四七)、筑前の那珂郡山田村(現福岡市)の庄屋、高橋善蔵によって『窮民夜光の珠』が書かれている。これも農文協刊「日本農業全集十一」に所収されているので、その現代語訳をされた安川巌氏と解題を書かれた山田龍雄氏の文の中から要約して紹介してみる。
「櫨は植木屋でさえも顧みなかった樹木であるが、宝の木である。肥前に渡ってきたのは、明らかにわずか十数年前のことにすぎないが、その栽培の早さは隼も驚くほどで、この樹から生ずる利益は非常に大きいのである。農家の大きな臨時収入となるものは、この樹をおいてほかならないことがわかる。現に闇夜に燈を得たような貴重な宝となるのは、この櫨の木が最上であろう。この樹こそ窮民夜光の珠(貧窮にあえぐ民にとって暗闇をも照らすほどの輝かしい宝石)といってもよいのではあるまいか。私は未熟な弱輩ではあるが、多くの栽培家の育成法を試み、世間一般の既成の技術のほかにも特別の極意があろうかと思い、昼夜櫨の木のことばかり考え工夫をこらした。おりから、藩主黒田継高公が領内の人民をあわれみになり、心が深かったので、筑前国中の庶民が自らなんの苦労もせずにこの宝の樹を植える世の中となった。」と前書きし、二十八項目に渡って櫨の木の栽培法を著している。
他領にまで調査に出かけて「寝ても覚めても櫨のことを考えた」とする善蔵を山田龍雄氏は「櫨キチ」と称する。中でも「良種の選び方、良苗の育て方、良苗の見分け方、接ぎ木の注意など、栽培技術がまだ低かった粗放な段階での正当な手順を主とした本書は櫨栽培書の古典となる資格を獲得しえた所以であろう。」と評する。また、この書でも良苗の見分け方で述べていることに注目すると、「櫨の最初の苗木がいつの時代に渡ってきたかは知らないが、九州で栽培されるようになったのは、琉球国から薩摩の国に渡ってきて、それから九州地方全体に普及したものである。」と述べていることだ。
山田氏は「明治十年の『全国農産表』が示す数字から、箭内・山陽の綿、関東・裏日本・東北の繭、四国の藍葉・楮に対して、九州は蝋である。」という。その櫨蝋が明治後期から「支那蝋」や西洋のパラフィンの代用によって圧迫をうけ衰退していった。「北九州では「地主作物」として大地主は櫨畑を開き、中小地主も水田の畦畔に植えた。藩制時代から河川堤防や道路の境界に植えられたものとともに、太平洋戦争前までは秋に、櫨畑、櫨並木が一面に紅葉して筑紫野を飾った。楢や櫟に代表される武蔵野の黄葉に対応して、筑紫野の独特の風物詩をなしていた。」という。しかし、その光景も「農地改革や『地主作物』が消滅し、少なくとも平坦部で汽車やバスの車窓からみる限り、点々と櫨の紅葉を認めることはあっても、それは残骸として雑木林に混在しているだけである。」と言い放つが、一九七七年の農林水産統計『日本貿易月表』の林産物輸出額にある木蝋の金額一億円前後にあがっていることに、櫨の実の天然素材の有効性が見直され、未来はあると結んでいる。昭和四十五年のことである。
明治の画家、青木繁が詠んだ『櫨多き国』の北部九州の風景は、青木の望郷の碑が見おろす「けしけし山」の山麓、久留米市の柳坂曾根の櫨並木に残った。しかし、櫨多き国の風物詩をなした九州の他所はどのようなものなのだろうか、その手がかりを得に櫨蝋を買い取る製蝋業者をさがしたら、今はただ一社のみであった。
筑後平野の八女地方も有数の櫨の木が植えられたところであった。その一角をなす福岡県三池郡高田町に「荒木製蝋合資会社」はあった。荒木製蝋は江戸時代からつづく製蝋会社で、社長の荒木辰二氏から事業内容と現在の九州の櫨の木のことを親切に教えてもらった。それによると資本金五百万、従業員数二十名で、木蝋原料の櫨の実は九州一円と四国の一部より集荷し、年間を通じて天然ワックスの木蝋を製造している。その大部分は天日漂白して白蝋となり、国内はもとよりその半ば以上をジャパンワックスとして欧米及びアジア諸国に輸出し高い評価をうけている。今後の需用に応えるために全九州に櫨樹の増殖を行いたいと願っているとも言われる。そこで買付をされている地域を紹介してもらい、私は広義の『櫨多き国』の主だった風景を見つめる旅にでることにした。
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