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二、薩摩半島の櫨
櫻島フェリーから見た根占町
 
 
原幹郎さん(右)と小田健吉さん
 
 
苙郁夫さん
 
 晩秋の夜明け、鹿児島の錦江湾を進むフェリーの船上から眺める目的地、薩摩郡根占(ねじめ)町は、その昇る朝日に輝く場所だった。九州に、いや日本に初めて櫨の木が植えられたのが薩摩だという。
 前日に鹿児島県立図書館で藩制時代の櫨について調べてみたが、櫨栽培発祥の地であるはずの鹿児島なのに、北部九州でみられたような櫨に関する資料はとぼしかった。しかし、図書館司書の方が見つけて下さった僅かな資料で、そのことはすぐに理解できた。まずは、昭和十五年刊の『鹿児島県史』第二巻に製蝋の項目があり、櫨伝来の年代がふれられているので要約する。
 「藩内に於ける櫨樹埴栽及び製蝋の起源は種々あるが、彌寝(ねじめ)家の伝承によれば、天正(一五七三〜九一)頃、彌寝重長が毎年渡唐の商船に托して櫨苗を取り寄せ所領地の小根占に植栽したとある」
 もう一説は「世に漂着の支那船員が、櫻島小川村に櫨実及び製蝋法を伝え、夫より櫨の植栽及び製蝋が始まり、次いで、肥後筑前へ伝播したとも伝える。佐藤信淵の『草木六部耕種法』には之を正保二年(一六四五)とし、大倉永常の『農家益』には延寳(一六七三〜八○)頃としているが、本文の如き事実から、正保或はそれ以後伝来説は肯定し得ない。」と附す。
 また、昭和四十九年刊の根占郷土誌には「正保元年(一六四四)異国船、櫻島に漂着し船修繕の間に、土人に黄櫨の種子を与え小河の地に植えしめ実を取り蝋を製することを教へたり。とあるが、これは誤りであり、櫻島には小河なる地名もなく湾口より遠く櫻島まで漂着すること事態に疑問があり、これは多分小根占村の雄川のことであると思われる」と櫻島説を否定している。
 さて、櫨について先に資料が少ないと感じた答えは『鹿児島県大百科事典』の[櫨蝋]の項目にあった。筆者は原口虎雄氏。それを要約して引いてみる。
「藩制時代、奄美特産の黒糖が典型的な『領主的商品生産』であり、奄美の島民を地獄の苦患に追いこんだことは何人も知っていることだが、薩摩本土の農民にとっては、櫨の栽培が強制させられ、人々に強い苦痛を与えた。櫨の強制耕作制度が始められたのは吉利郷領主彌寝(ねじめ)清雄が家老時代の元禄(一六八八〜一七〇三)頃から。藩財政の窮迫の打開策からだった。したがって清雄は、『後年になって財政にゆとりができるようになったら、この制度は廃止すべきである』と遺戒している。清雄は江戸で旗本から製蝋の利を教えられたと言う。そこで、先祖の彌寝重長が小根占に櫨苗の植栽のことを顧みて、同地より苗を移植し、櫨蝋の生産を領民に強制耕作させたのである。しかし、この制度は、清雄の遺戒にもかかわらず後年益々強化された。制度は一種の専売制で生産物は大阪市場で取り引きされ、薩摩藩に巨額の富をもたらしたが、生産者は夫役にひとしいもので、利潤はすべて藩庫および御用商人に吸いとられた。それに櫨の栽培・管理・収穫を『櫨守取納』という機関を設け、郷士や農民に五人組を作らせ生産監視をした。特に農民がきらったのは、農繁期との重複労働であった。鹿児島の櫨実収穫は『櫨守取納』の監視下で九月から十一月までの間、毎日続く。この頃は稲、唐芋、粟、蕎麦と収穫作業が連続する。優先されるのは櫨で自分の諸作の取り入れは片手間仕事になったという。このように郷士にも農民にも、ひとしく『厄病神』的存在であったから、維新後は『親の仇』とばかり、県内の櫨樹は伐り倒されてしまった。」
 また、同書の「ハゼノキ」の項目では、初島住彦氏が「旧藩時代は奨励し多く栽培されたが現今はほとんど伐採され老木は見られなくなった。」と記している。そのような稗史の一シーンを経た薩摩の地ではあったが、荒木製蝋の紹介される櫨実の現在の取り引き先は、奇しくも日本における櫨植栽発祥の地、根占町であった。
 垂水港でフェリーをおり、錦江湾沿いの道を車で四十分程進むと、伝承の地「雄川」に着く。根占町役場がある場所だ。そこからまた、十分程行くと荒木製蝋から紹介された原幹郎さんが待っていてくださる辺田地区だ。辺田には平地はなくすべての農地が錦江湾に向かって傾斜している。原幹郎さんの住む原集落も海岸の国道から急坂を登った傾斜地にあった。原さんから早速、荒木製蝋に出荷する櫨実を見せてもらった。
 原さんは「収穫したのはよいが今は買付にこない。かつては四国の愛媛製蝋、佐賀の佐賀製蝋、福岡の荒木製蝋や長崎の業者まできて、公民館でハゼの値決めがあり、高値で取り引きされたがな。よかったのは、今八十歳になる親父の代までやがな。収穫は大変やった、ゆいでな、協同作業よ。必ず焼酎の御神酒をあげケガせんように、各家々のハゼの実を順々に採っていった。」といわれる。櫨の品種は長崎の島原からきたという『昭和福ハゼ』と『ヘイオンハゼ』と呼ぶ在来種と思われるものだった。そこから五分程南にある苙(おろ)集落には往時、製蝋所を営んでいた方が居られるというので、そこへ向かった。
 
ヘイオンハゼ
 
 苙郁夫さんは大正十五年生まれの七十六歳。苙家は藩制時代、伊敷の御用商人だった。屋号を「カネオ」といい、そこから根占に移ってきて、製蝋は二十五年前まで続けた。製品は白蝋にして出した。櫨実は辺田地区の家々から、廃業する前、百斤(六〇キロ)一万円くらいで買っていたといわれる。
 現在、辺田地区の櫨の木に古木はないそうだ。櫨植栽の発祥の地の傾斜地は、最近また耕地整理で櫨の木が随分伐られたという。所々にある背の高い、収穫するのに大変だろうなと思われる「ヘイオンハゼの木」の一本を、薩摩富士と称される美しい開聞岳をバックに撮影をして櫨植栽発祥の地をあとにした。







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