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三、蝋燭と絵蝋燭の製造工程
(一)蝋燭製造
 藩政時代には、農村で蝋を絞り、城下の蝋燭屋で蝋燭を製造してきた。明治以後、年貢蝋が廃止されると、村で蝋絞りをしていた人たちが、町の蝋燭屋より道具を買い求め、蝋燭を製造するようになった。嘉永五年(一八五四)の「五副対」という若松城下の特産物・職業・名所・旧蹟等を記載した刷物に、「土産」(特産物)として蝋燭が書き上げられ、そこには五名の蝋燭職人が書き上げられている。文化四年(一八〇八)の『若松風俗帳』には、特産品として蝋燭が書き上げられ、当時の流通の状況などが記述されている。
「蝋燭 往古より会津専の産物にて、近国はいうに及ばず、上方西国まで其名広く交易仕候、然とも蝋の性合強く、暑中といへとも欠け損し安く、長途の駅路無難に届きかたきを以、間々生蝋にて出る。」とあり、蝋燭より生蝋で流通していることを記載している。(注(15))
 
(14)蝋燭製造・蝋掛け
 
 
(15)水ごき
 
 
(16)鉋削り
 
 蝋燭を作ることを、「蝋燭掛け」という。徐々に蝋を塗りかため、太くしていくため、真綿かけのような製作方法である。そのため、蝋燭製作場を、「掛場」とも呼ぶ。藩政時代には、原料の蝋は専売制のもとに統制されていたので、城下の蝋燭屋も、きびしい制約を受け、蝋は藩蔵へ集められたものの払出しを受けていたという。藩直営の蝋燭掛場もあり、そこの職人頭は帯刀も許された。七日町の星家には、職人頭を勤めたときの陣笠が保管されている。蝋燭屋の中には、御城や江戸の御用を勤める者もあり、諸役を免除されるなどの特権を与えられる者もあった。
 蝋燭を作るためには、絞り固まった生蝋を細かく砕き、水を入れた鍋で熱してとかす。あらかじめ藺草(いぐさ)の灯芯を巻いて芯を作っておく。とかした蝋は、ロウブネ(蝋舟)と呼ぶ堅木(オノオレなど)の刳り(くり)物にあけ、その中に芯を巻いた蝋かけ串を浸しながら、太くしていく。(14)一回浸すごとに乾燥させ、これを何度もくり返していく。八匁(三〇グラム)の蝋燭で一四、五回掛ければ、一定の太さになる。
 蝋を掛け終ると、ようやく乾燥させてから、「鉋(かんな)削り」(16)といって表面の凹凸をなくすため、鉋を掛ける。次に、「水ごき」(15)といって蝋と水を交互に手のひらにつけ、蝋燭の表面をこすりながら、蝋燭の形作りと同時に漂泊をする。最後に、蝋燭の先を削り、芯出しをする。蝋燭の先作りには、「芯じめし」といってサイカチの実をもんだ汁に浸しながら蝋をかけるので、芯を削り落とすことなく芯出しができる。サイカチは石けん水の役割をし、芯に蝋がつかない働きをする。芯を出したら、長さを計り、尻を切り落とす。これを十本ずつ並べて新聞紙に包み、一把として販売する。また木の実と交換に蝋燭を配って歩く。パラフィンの蝋燭に対し、漆蝋燭を「地蝋燭(じろうそく)」と呼ぶ。
 
(17)絵蝋燭(会津民俗館蔵)
 
 
(18)筆形の絵蝋燭(会津若松市小沢蝋燭店蔵)
 
 
(二)絵蝋燭の製造
 会津の蝋燭の特産品のひとつに、絵蝋燭がある。現在もその技術が継承され、観光土産にもなっている。ただ漆蝋の生産がなくなったので、九州地方の櫨蝋を原料として、現在三軒の蝋燭屋に絵蝋燭の伝統技術が継承されてきている。
 絵蝋燭の歴史について明記した史料はないが、文化四年の『若松風俗帳』には、その形態などが記述されているので、遅くとも文化四年の一九世紀初頭には存在していたことになる。また文化六年の『新編会津風土記』には、大町の蝋燭屋斎八郎兵衛が、「近き頃此品(絵蝋燭)を巧み出せしより今多く広まれり筆翰竹筍のかたち真にせまり宮媛の清翫とするに足れり」とあり、文化六年に近い時期に造りだされたことが記述されている。大町の斎藤八郎兵衛は、若松城下の蝋燭屋としても有名で、嘉永五年の『五副対』にも記載されている。当時どのような形態のものであったか、『若松風俗帳』の記載からみてみよう。
「絵蝋燭 色白き、上蝋にて蝋燭を掛、其めくりへ、草木、花鳥、魚□(不明)を画、或は筆箏のかたちに掛、是を色能彩色して、其上蝋ににて留る、又画の高低肉置して蒔絵のことくなるもあり、仏前等へ是を燃すに、火の光りを以一円と画、透通り明かに見ゆるゆへに一興なり」
と、さまざまな形の絵蝋燭があったことがわかる。(注(16))また文久年間(一八六一〜六三)の『会津若松城下国産諸職商人細見』には、「御用絵蝋燭」の専門店がみえているから、幕末期には普通の蝋燭屋から分れて、専門化していることがわかる。『若松風俗帳』によると、絵蝋燭には三種類があったことがわかる。一つは現在の絵蝋燭のように表面に草木などを描いたもの、もう一つは筆やたけのこ・巻物の形をしたもの、もう一つは表面に蒔絵のように高低をつけて模様を描いたものである。小沢蝋燭屋には、二つ目の筆(18)・たけのこ・巻物の形をした三種類の古い絵蝋燭と、三つ目の蒔絵のような模様の絵蝋燭がある。(注(17))会津の絵蝋燭の制作当初のものとみられる。また、幕末・維新期の戊辰戦争を風刺した錦絵、「子供遊び絵」にも絵蝋燭の模様の浴衣を着用した子供が描かれているところから、幕末期には江戸でもかなり絵蝋燭が知られていたことがわかる。(注(18))(17)
 絵蝋燭を製造するには、上質の蝋で蝋燭を精製し、その表面に豆汁(ごじる)を塗り、菊や牡丹・梅などの花模様を描く。絵具は泥絵具に膠(にかわ)を混ぜる。かつては、蝋燭掛けと絵付けは分業であった。絵付けされた蝋燭は、ふたたび蝋燭屋に送られ、絵付けした上に「上掛け」といって薄く蝋を塗る。これは最も技術が要る作業である。(注(19))(19)(20)
 会津若松市内では、観光土産として絵蝋燭が製造されている。原料は櫨蝋となったが、伝統的な蝋燭製造、絵蝋燭製造がわずかな形で継承されてきている。
 漆という一本の樹から漆器と蝋燭という特産物を作りあげてきた。それは会津の自然と文化との織りなす歴史でもある。
 
(19)絵蝋燭の絵付け(山口弥一郎撮影)
 
 
(20)絵蝋燭製造・上掛け(同上撮影)
 
・・・<福島県立博物館専門学芸員>
(1) 拙稿「子供遊び絵と絵蝋燭」『会津の民俗』第二九号 会津民俗研究会 平成十一年
(2) 会津若松市出版委員会『会津若松史』第三巻 全津若松市 昭和四十年
(3) 『鹿児島県史』第二巻 鹿児島県 昭和十五年
(4) 大蔵永常『農家益』近世歴史資料集成第II期 第II巻 科学書院 平成五年
(5) 拙稿『蝋絞りの技術をめぐって』『民具マンスリー』第三一巻十号 神奈川大学日本常民文化研究所 平成十一年
(6) 『日本山海名産図会』日本庶民生活史料集成第十巻 三一書房 昭和四十五年
(7) 松本誠氏の御教示による
(8) 庄司吉之助編『会津風土記・風俗帳』第三巻 歴史春秋社 昭和五十五年
(9) 初瀬川健三『漆樹栽培書』明治農書全集第五巻 農山漁村文化協会 昭和五十九年
(10) 渡部「会津の漆蝋の製作工程とその用具」『会津の民俗』第九号 会津民俗研究会 昭和五十四年
(11) 注(9)
(12) 注(9)
(13) 注(9)
(14) 注(9)
(15) 注(8)
(16) 注(8)
(17) 拙稿「会津の絵ろうそく縁起談」『民具マンスリー』第一六巻一二号 神奈川大学日本常民文化研究所 昭和五十九年
(18) 注(1)
(19) 注(17)







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