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庄内地方の蝋搾りと絵蝋燭・・・犬塚幹士
一、庄内藩と漆蝋
花紋燭看板(中村家伝来)
 
 
蝋燭屋看板
 
 庄内地方は山形県の北西部、東南につらなる出羽三山を中心とする出羽丘陵や、北部の鳥海山によって囲まれた面積二四〇〇平方キロほどの地域で、西側は日本海に面している。
 最上川流域を中心とした豊沃な庄内平野は、古来米産地として知られており、江戸時代は、庄内藩十四万石の所領として、約二百五十年間酒井家の統治したところである。
 奥羽地方は、古くから良質の漆の産地であり、各藩は特産品の一つとして、生産に力をそそいできた。庄内藩も例外ではなく、漆と蝋を採取する漆木の植樹栽培を奨励してきた。
 元和八年(一六二二)、山形城主として、庄内地方をも領有していた最上家の改易によって、酒井家が受け継いだ庄内の小物成目録の中には、「川北分(最上川以北)の漆三五桶但し壱桶二貫目、蝋拾五貫二百匁。川南分の漆百四拾四貫五百五拾匁、蝋四拾四貫五百七拾五匁」などと記載されており、当時は、漆、蝋、塩、炭、いかなどの生産品には小物成が課せられていた(鶴岡市史による)。また正保三年(一六四六)の庄内藩の浮役帳には「漆二八五貫七二六匁、蝋一四八貫五九匁」となっている。
 
漆の実と叩き木と篩
 
 
漆の実を叩いて粒を落とす
 
 藩では青木とともに漆・楮などの植付けを督励し、ことに漆木は樹液の採取とともに、木蝋の原料となる木の実の収穫のために、奨励保護につとめ生産高の増加をはかっている。
 万治元年(一六五六)漆年貢五公五民と定め、残りについても藩のきめた価格で買い上げ、勝手な脇売りを禁止するなどきびしい規制を行っている。郡代の下に御漆蝋役をおいて、その出納管理にあたらせ、上納漆について品質の低下を抑えるなど、指導監督を行っている。
 たとえば、朝日村史には「漆の実は、村方肝煎がまとめ、全部藩の蝋倉へ上納し、代金を受け取ることになっていた。上納値段は、その年度によって変動があり、嘉永五年(一八五二)の場合には、一俵は五百四十文となっている。一俵は五斗入りであった」とある。
 しかし、田畑に比べてその収益が少ないこともあって、藩の奨励にもかかわらず、漆木の栽培は次第に減少したといわれている。
 明治三年(一八七〇)の「管内不足品他邦より仕込高」には、「蝋拾四、五貫匁入五百叺位代金凡壱万両 但し上中下平均一叺に付弐拾両位」と記されており、更に明治八年(一八七五)の移入品の中に、蝋四〇八二個、三三九五八円八〇一銭とある(庄内史要覧)。
 江戸後期になると、生産の低下に加え、蝋燭の需要が高まり、地元産の漆蝋ではとうていまかないきれず、西日本で盛んに生産されていた櫨(はぜ)の実を原料とするハゼ蝋が、日本海航路の盛行もあって、安価に大量に移入されるようになった。







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