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二、製蝋工程
 蝋のしぼり方を簡単に述べると次のようになる。
 晩秋から初冬にかけて漆の実を集める。少量の場合は臼で、多量の場合は水車を使って漆の実を搗き、果肉と種子を分離する。蝋分が含まれているのは果肉の部分である。これをさらに搗いて粉状にし蒸す。蒸し上がったら竹製の篭(蝋袋)に詰める。蝋じめの中心になる道具は約四〇センチ角に長さ約三メートルの胴木で、中央部に長方形の穴が開いている。この穴の上に蝋袋を置き、安定させるために蝋袋の両側にコマを配し挟む。さらにコマの外側にヤ(クサビともいう)を差し込む。胴木の両端に若者が立ち、重さ二〇キロもある木槌を振り上げてこのヤを打ち込むと、その圧力により蝋袋の漆の実の粉から蝋が絞り出される。胴木の下に箱を置いてこれを受け、しばらくすると箱の中で蝋は冷え固まりとなる。
 蝋の製作工程のおおよそはこのようなもので、会津地方のそれとほとんど同じである。ただ道具には二つだけ会津地方と異なる点がある。一つは蒸した漆の実の粉を会津では麻袋に入れるが、岩手では竹製の篭に入れる。これは近くに竹細工の産地である一戸町鳥越があるためと思われる。もう一つの相違点は胴木の長さである。会津のそれは長さが二メートル弱なのだが、岩手のものは三メートル近くある。そして会津では胴木の脇に立ち木槌を振り下ろすのに対して、岩手では胴木の上の両端に二人が乗りこの動作をする。
 なぜ胴木の長さに違いがあるのか、それによって生産量に影響があるのかなどについてはまだわからない。
 
蝋燭屋看板(二戸市黒沢家蔵)
 
 
蝋燭(浄法寺町歴史民俗資料館蔵)
 
 
蝋胴木鑑札(一戸町田村家蔵)
 
三、蝋の移出先
 現在、岩手県北で実際に蝋燭を作っていたという証拠を数多く挙げることは難しい。蝋燭そのものは浄法寺町の旧家から見つかったものが浄法寺町立歴史民俗資料館に寄贈され展示されている。二戸市の黒沢家には「御用御蝋燭屋 伊勢屋助右エ門」という看板が残る。また、一戸町にはローソク屋という屋号の戸田家がある。ここには蝋燭作りの道具が数点残っていたから、ローソク屋は販売よりも蝋燭製造から出た屋号であろう。戸田家の蝋燭販売圏は岩手県北から青森県南だったという。これ以外には今のところ、道具の一部を伝えている家が数軒あるのみである。例を挙げてもこんな具合で、この地方で蝋燭作りはそれ程盛んに行われていたような形跡がない。
 しかし、一戸町の田村家に嘉永二(一八四九)年に盛岡藩が出した胴木の鑑札が残っているように、蝋じめは盛んだったのである。蝋燭作りはあまり盛んではなかったが、蝋じめは盛んだった、すなわち蝋燭に加工して売り出すのではなく、蝋を固まりのまま売り出すのであった、ということである。
 ところで、その移出先がどこであるかはごく最近まではっきりしなかった。なにしろこの地方での本格的な蝋じめは大正末期に終わったらしく、筆者が調査を思い立った昭和末期には、詳しいことを知っている人はもはやいなくなっていた。時代は流れて実際に蝋じめを行った人たちの子供か孫の代になっていたのである。この人たちから祖父や父親のことを聞き、第一の移出先は福島県会津地方であることを確信するにはかなりの時間を要することになった。新潟県長岡の名も出てきた。どちらも絵蝋燭の産地として有名なところである。しかし、これ以上は具体的にはならなかった。
 一戸町の堀口呉服店でたまたま見せてもらっていた大正期の金銭出入帳に、「福島県喜多町風間常松 三九二円七二銭」というのを見つけたのが大きく前進する契機となった。堀口家もかつては蝋じめをしていた家である。喜多町は「方」が抜けたのだろうから喜多方町だろうし、ここで風間常松の子孫を探せばなにか分かるかも知れない、というところまでたどり着いたことになる。福島県のことは分からないので会津民俗館の渡部認氏に相談したところ、喜多方市に風間家が経営する雑貨店があることを突き止めてくれた。
 一年後、私は風間家の店である大(ます)商店を訪ねた。そして常松の孫の妻である愛子さんにご協力いただくことになった。風間家に残る関係史料のうち、「大正四年書抜帳」と「大正六年人名帳」に私の期待するものが潜んでいた。後者の「大正六年人名帳」には、実際に取引きをしたのかどうかはわからないが、次の岩手県北の漆蝋関係者十名の氏名が見つかった。これには地元の調査では出てこなかった氏名が半数あり、岩手県北地方の漆蝋生産、そして取引きが大量であったことを窺わせることとなった。
 
『大正四年書抜帳』(喜多方市風間家蔵)
 
二戸郡 福岡中町 (現二戸市) 大澤万治
  福岡仲町 (現二戸市) 阿部九蔵
  福岡仲町 (現二戸市) 米沢屋吉之助
二戸郡 一戸町   内田長六商店
  一戸町   堀口常吉
  一戸町   本宮龍太郎
  一戸町   小刈米清一
  一戸町   日影舘栄八
二戸郡 姉帯村 (現一戸町) 駒木治右エ門
二戸郡 (町村名不明)   向井商店
 
 「大正四年書抜帳」には、大正七年の秋から冬にかけて、大澤万治、堀口常吉、阿部九蔵、米沢吉之助の四名から風間家が漆蝋を購入したことが記されている。しかも、その重量と代金が載っているので具体的な価格がはっきりするという好史料である。
 (1)漆の固まり一個を一舟といい、二舟で一俵、売買の場合は俵が単位となったこと。(2)一舟の重量は定められたものではなく平均で七貫強であること。この史料では軽いもので六貫七〇〇匁、重いもので八貫二五〇匁ある。(3)生蝋一貫の値段が二円強であることなどが、この史料からわかる。これを当てはめると、この史料を見つけ出す発端となった、一戸町堀口呉服店の金銭出入帳にあった、「福島県喜多町風間常松 三九二円七二銭」は生蝋一九〇貫位の代金であったことになる。
 このようなことで、岩手県北地方で生産された漆蝋が固まりのまま会津地方へ移出されていたことは明確になった。次は会津でこれが何の原料にされたかである。
 会津は絵蝋燭の産地として古くから知られていて、今もその伝統は受け継がれているから、蝋燭の原料となったことがまず考えられる。事実、会津若松市で絵蝋燭を作り続けておられる星栄一氏は、先代が質のいい漆蝋として会津産や南部産を挙げていたのを記憶している。しかし、風間家の場合は少し違うようだ。蝋燭も作ることは作ったようだが、風間家の中心は鬢付油や香油など化粧品の製造であった。今も「窓の月香油」というラベルが残っており、それには大商店謹製とある。
 岩手県北地方から会津地方へ移出された漆蝋の量が全体ではどれくらいで、蝋燭や化粧品の原料としてどのような割合で使われたのかの解明は今後の課題である。
 
「窓の月香油」ラベル(喜多方市風間家蔵)
 
・・・<岩手県立博物館研究協力員>







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