日本財団 図書館


■船大工の経歴について
a. 出身と見習い・修業
 調査した船大工の90%以上の父親が船大工で、代々船大工を家業としてきた人達である。本調査にも一部、小型船舶協会に加入して中型(5トン以上)の漁船を建造してきた造船所もあるが、大半は一人か親子、兄弟での造船であり、大きくても2〜3トンまでの漁船を、ほとんどが小型船や磯船を造ってきた船大工の継承者だった。
 彼らは3年から5年の見習い期間に父親や別の親方から技術を習得し、ほぼ1年のお礼奉公をした。特に他人に弟子入りした場合は必ずといっていいほどお礼奉公をした。ほぼ、5年が基礎技術の習得期間と見て差し支えない。
b. その後の経験について
 見習い期間終了後の経験は、彼らの年代によって大きく異なるように見える。もっとも船大工の場合、見習いといっても模型の船を造るわけではない。見習い即実践であったから、本物造りの中で技術をたたき込まれていった。だから、木造船の造船が多忙だった時代は、見習いもくそもなかったといっていい。父親の後をついだ場合、その船大工はほとんど家をでることなく同じ場所で船大工を継承して一生を終えることとなる。
 「渡り大工」とか「飛行機大工」という言葉を聞くが、船大工以外の家系から入った船大工は、多くの場合、自分のお得意(漁師)や小屋を持たないし、資本もないから、雇われ大工になったケースが多い。大戦前後は特に、戦時大型造船があったし、人手が足りなかったから、文字どおり「飛行機」のように造船場から造船場へ飛んで歩いたという船大工も多い。もっとも、そんな船大工は広島、長崎、函館をはじめ全国各地の港湾の造船場近くで働いた。
c. 経験の年数
 船大工は一生もんだった。船大工一覧表で見られるように、早い人で13歳、ふつう14〜16歳で船大工になると70歳くらいまでのほぼ55年からそれ以上の経験を持つ。
 
■今後すみやかに造船すべき船種について
 本調査の最終の目的は、船大工の技術を継承するためにどうするか、であり、もしどうしても継承が不可能なら、せめて現時点でできる範囲の木造船を造船して保存することにある。そこでもし造船するとすれば、どんな船をどの程度造船するかが問題となる。
 ただ、木造船といっても、地域によって、使用目的によって(漁業用とか運搬用とか)、大小によってなどさまざまに異なることは言をまたない。したがって、可能なものを全部残せとなるのであろうが現実には困難である。専門家研究者の叱責を承知の上で、本調査の結果から2〜3の優先順位を記しておきたい。
a. 地域的な優先度
 本調査および「木造船に関する基礎調査」における木造船の残存数および博物館等での木造船の保存調査などを勘案し、さらに、近年、町起こしやイベント行事において、各地で“伝統的な木造船”の復元が行われて来ている状況を見ると、太平洋側沿岸の造船が比較的に少なく、また、九州、四国など西日本が東日本に比べて希薄のように感じられる。その理由としては、木造船の復元および保存がどうしても保存施設の関係から、小型の木造船が中心となることにより、比較的早く漁船の大型化がすすんだことによるのかもしれない。さらなる調査の上、宮城、福島、静岡、愛知、和歌山、高知、鹿児島などで、可能な限りの復元・保存が必要のように思える。
b. 特種用途の船
 船大工の聞き取りをしていると、多くの船大工が熟練度が進むにしたがって船の大型化を誇るように思える。もちろん大型船ほど値段も高いから経済的な理由もあろうが。また、昭和40年代のはじめ頃からエンジンの発達につれ、船の大型化が進んだという発注者側の理由もあろう。
 例えば、伊勢湾に昭和30年代まで数千隻もあった「打瀬船」は現在、知多市に1隻しか保存されていない。不知火海や霞ケ浦の「帆曳く網船」も意識的な保存はされていない。東北から北海道沿岸で盛んだった「カワサキ船」も、各地で運搬用に多用された「ダンベ」船もまたしかりである。極くふつうにどこでも造船された「アグリ(巻)網漁」の船もほとんど保存されていない。熊野灘などで、FRPに転換する以前に造られた1トンクラスの木造漁船などは、戦後に木造船の大型化技術が加わった船として、なんとか復元してみたい船である。
c. 伝統的な(櫓、櫂用の)船
 この部類に入る木造船は地域的に見れば、なんとか辛うじて復元造船保存されているように思えるが、その数は極めて少なく、例えば、鹿児島沿岸の「サツマミヨシ」の船や宮崎・日南周辺の「チョロブネ」などは笠沙町と日南市が最近やっと復元した1〜2隻に過ぎず、心もとない保存状態にある。
d. 先に表−4で、船大工の高齢化の状況と、それに伴って『造船できない』船大工がどんどん増えている現状を考慮すれば、さらに、船種などの配慮の前に、“最後の一隻”をお願いして造船してもらう必要もあるのではないだろうか。
 
■船材、船釘および造船用道具について
a. 船材
 造船用の船材はほとんどが船体はスギで、アスナロ、モミ、などが極く一部で使われ、ほぼ各地とも“地元材”を使い、船大工の多くはさまざまな理由を言って「地元材が最高である」という。瀬戸内海から四国、九州の東岸、さらに玄界灘に面した地方で「ベンコウ材」「飫肥杉」という宮崎・日南地方の「弁甲」スギ材が使われていた。
 スギ材に関しては、現在も造船用として十分な供給が可能である。
b. 船釘
 西日本各地は大戦前はほとんど地元に鍛冶屋があって、船釘をうっていたが、昭和40年前後に鍛冶屋が次第に廃業してからは、それまでも船釘の一大生産地だった広島県福山市靹ノ浦から、多くは尾道の船具卸商を通じて、船釘を購入してきたが、現在、靹ノ浦での生産も廃絶一歩前である。船釘だけのせいではないが、注文がなく尾道の船具卸商の多くが倒産か廃業している。また、広島県木江町明石に何軒かの船釘専門の鍛冶屋があり、ここではマキハダも生産されていたので、「釘船」あるいは「マキハダ船」と呼ばれる回船が西日本各地の造船場を定期的に回って商売していた。
 東日本では、東京の材木商が広く船材のスギも扱っていたらしいが、もう痕跡しかなく、至急な追跡調査の必要性が残る。関東以北では“地元材”がどこでも使われており、スギの外にアスナロなども使われた。
 船釘は北海道では函館、東北では鼠ヶ崎、関東では東京、横浜などに鍛冶屋(あるいは鉄工所)があって相当量の船釘を生産していたようであるが、本調査ではそこまでの確認はできなかった。これも残された調査の課題である。
c. 造船道具
 ノコギリ、カンナ、チョウナ、ノミなどの船大工道具は一度、木造船の造船を中止するとかなり早く散逸するらしい。したがっで本調査において、「条件付で造船できる」と回答した船大工の中に、“道具があれば”としている者がある。中でもノコギリのうちシキ(カワラ)の“すり合わせ”に使うもの、ノミのうち船釘を打つのに使うツバノミなど、船大工独特の道具はすでに入手不可能になっており、西日本でよく聞かれる「天草の鬼池」(五和町)というツバノミの銘柄(産地)が今日も生産されているかどうかこれも確認していない。
 いずれにしろ、現存する船大工でも、今後の道具の入手については難しいとする者が多い。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION