■調査者の所見
調査を終えて
安冨俊雄
4月から12月にかけて担当である島根県、山口県、それに九州の福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、奄美大島、沖縄県を足早で歩いた。
当初、これらの地域の船大工全員に会う予定でいたが、残念ながらそれはできなかった。それでも主だった地域の船大工合わせて100名余にお会いする事が出来た。調査終了後の感想を一言でいうなら、想像以上に船大工の数が減少しており、現役船大工も高齢化が目立つ事である。しかも後継者もなく、船大工は現存の方々で終止符がうたれようとしている。かつて「海国日本」を支えた造船技術が消失しようとしていることは厳然たる事実である。先に、日本財団海洋船舶部より「木造船に関する基礎調査報告書」(平成14年5月)が作成されたが、今回の調査はその内容を裏づけるものとなった。財団の調査では、船大工の平均年齢は65.2歳とあるが、わたしの担当地区では、さらに高齢であったように思う。お会いした人は30代から80代までと幅広いが、そのほとんどが60〜70歳代であった。推測するに、このままでは10年余りすれば、わが国の伝統的な和船技術は完全に消滅するだろうということである。
さて、担当地域に限定するが、船大工調査の地域的特色について述べることにする。
まず、目についたのは船大工のほとんどが世襲制であるということである。戦前では学校を卒業後15歳から、戦後では高校を卒業後18歳から父親を通して技術を教わった人が多い。そのなかには江戸時代から何代も続いているという造船所もあった。そして自分が子どもや青年の頃には十数名の船大工をかかえた造船所であったと言う人もいたが、現在はそれを見る影もない。家内工業として行われている所がほとんどである。
ここで船大工の現状を少々紹介する。周知のように、昭和40年代後半からFRP船の建造が顕著になり、安価で、軽く、しかも建造日数が短いなど木造船にくらべ経済的ということでFRP船は全国に広まっていった。これとは逆に木造船の建造は徐々に減少していった。
調査のなかで、多くの船大工が廃業されたこと、転職されたことなどを聞いた。残っておられる方々も、そのほとんどがFRP船を建造・販売している。この他、船の修理をしながらほそぼそと家業を継承されている人が多い。そして、その規模は家族や連れ合いが手伝っている程度の事業形態である。
これらの船大工がこれまで造った船数は人によって異なるが十数隻から小さいものを含めて数百隻にのぼる人もいる。建造する船は漁船が圧倒的であるが、なかには数十トンの運搬船を造ったところもある。
先に述べたように、船大工の技術は、親代々受け継がれたものが多いが、なかにはしばらくの間、遠く離れた所で武者修行を重ねた人もいる。そんななかで、単独で造船所に学んだ人は、見習い期間の他にお礼奉公など想像を超えた苦労があった。
ちなみに、見習い期間は4・5年、その後棟梁に船大工道具を揃えてもらい1年間はお礼奉公といって無給で働くのが一般的であった。
こうした武者修行も戦後になれば少々形も異なってくる。長崎(壱岐)から広島県木の江町の高校で造船技術を学んだという人が何人かいた。これは従来の世襲制と異なる技術の習得方法で、それまでの船大工の世界では画期的な制度ではなかったろうか。
また、かつて軍船を建造するなど見内に広く知られていた熊本県五和町鬼池地区は十数軒あった造船所が現在4軒になったが、一箇所に集まり造船地区を形成するなど新しい試みをする所もある。
意外だったのが、沖縄県石垣市で沖縄独自のサバニ船を建造するのではなく、本土で使用されるものと同型の漁船や運搬船が建造され、船霊も入れると聞いたことである。(石垣ではサバニ船の船大工が1人いるが、サバニ船はほとんど沖縄本島で建造する。)石垣には、かつて台湾の造船業に携わった本土の人たちが終戦後本土に帰還せず石垣に留まったという。そして彼等は宮崎県の棟梁から造船技術を教わった。
一方、船大工が減少し、船技術が消滅するなかで、規模を小さくしながら船技術を受け継いでいるところもある。それは、現在も伝統行事として船祭りがさかんに実施されているところである。なかでも船競漕がさかんに行われる。つまり、ぺーロンの長崎市、船グロウの壱岐・対馬、船漕ぎ競漕の奄美・名瀬、ハーリーの沖縄などである。この他にも熊野地方、瀬戸内海の芸予諸島、山口県の萩などがあげられている。これらの地域ではいずれも立派な木造船を使って船祭り、船競漕が行われている。
このうち長崎市では毎年数十隻が建造されるため、数箇所の造船所には3、4人の船大工がいる。長崎の例は需要さえあればこれからも船大工が存続する証である。
しかしながら船競漕のさかんな沖縄では事情が異なる。沖縄はハーリーとして広く知られ、沖縄各地で行われているが、さかんなわりに船大工の数が少なく、後継者問題も深刻である。しかも長崎のように毎年何隻も建造されない。これは船の耐久年数が長いことと、近年FRP船が徐々に使用されるようになってきたことなどがあげられる。そして船も競漕を意識し、スピードを出すために反りの少ない船になり、かつてのサバニ船が消失するのも時間の問題であろう。
この他船の伝統行事は実施されても現在は動力船に代わったり、競漕が省略されたり、FRP船に代わって櫓漕ぎから短櫂に代わるなど祭自体が簡易化されている。
さらに西日本が東日本にくらべ船競漕がさかんなことは周知のとおりであるが、これはかつて鰊漁や捕鯨業が盛んであった所と符合することも記しておく。
つぎに、船釘と船材であるが、船釘は九州や中国地方では広島県尾道や木の江などからほとんど購入していたようだ。かつては広島のほうから定期的に船で造船所を回って来たというが、今はない。当初、地元で鉄釘を造っていたがやがて亜鉛引きの釘が使用されるようになり、しかも広島のものを使用するようになったようだ。しかし現在では需要も少なくなってるためしかたないが、長崎市などでは船釘を入手するのに苦労しているようだ。現在では船釘を製造するところはほとんどなくなってしまった。
なお、沖縄のサバニ船では船釘に本土からの竹(モウソウ材)を使った。
船材は宮崎・日南のオビ杉や日向ベンコウ(杉材)に人気があり各地から購入されていたようだ。宮崎材はしなりや粘りがあり、船大工には喜ばれた。沖縄のサバニ船にも宮崎の杉材が使用された。しかし熊本県では天草材を多用した。
船材は外ハンには杉、内装には檜、骨組みには松、みよしにはケヤキなどを使用した。
最後になったが、西日本にも木造船の建造技術をもつ人が存在する。しかし高齢であり、彼らの能力を生かす時間は限られているように思う。島根県の踏手舟、山口県の萩の競漕用和船、長崎県対馬の船ぐろう船など、これらの船は緊急を要する。図面や船の現物を是非保存してほしい。
京都・滋賀・石川・富山の現地調査から
出口晶子
1. 調査の主眼
日本の在来船が有形文化財として記録保存の対象となっていくのは、昭和29年(1954)に文化財保護法が改正され、重要民俗資料の指定制度が設けられたことと関係が深い。これによって昭和30年代、40年代には、アイヌのチップ、大船渡のマルタブネ、男鹿のエグリブネ、新潟のドブネ、中海のソリコなどがあいついで重要民俗資料として指定をうけ、博物館などに保存された。当時指定の対象となったおもな船は、和船のなかでも減少著しく保存の緊急性が高いとみなされた丸木舟系統の船である。モノの保存指定とともに、船大工が1人ないし2人程度となった隠岐のトモドや新潟のドブネについては、その工程の製作記録もなされた[文化庁保護委員会1962]。モノだけ残しても造る技術がこのままでは不明に帰するのを憂いての、賢明な措置であった。
その後、昭和60年代には、文化庁の指導のもと、各県の教育委員会が諸職調査を実施した。諸職の担い手と技術の実態変遷を調査記録することによって、関係資料の収集保存活用や伝統工芸技術の保存に資すことがねらいであり、船大工は陶磁・染色・和紙・建築など、各地に伝承されてきた生活用具を製作加工する伝統技術関連の職人仕事、すなわち諸職のひとつとみなされてとりあげられている[出口1997a:86]。一定の調査方式にのっとったその成果は、1980年代末から90年代はじめにかけて各県で刊行されており[富山県教育委員会1992、京都府教育庁指導部文化財保護課1994など]、各地の諸職を知る有効な基礎資料となっている。
とはいえ、調査の主旨からいって、とりあげられる船大工はあくまでも多種多様な諸職のひとつという扱いである。そのため、その数は2〜3名程度と限度があり、またすでに10年あまり経過して、亡くなられた方も含まれている。その意味では、「緊急な手だてを要する現在」を知る資料としてはすでに再確認が必要な段階をむかえている。
このような状況下、船大工にしぼって全国的な概況をつかむために2001年、漁協単位にアンケート依頼して実施されたものが日本財団の『木造船に関する基礎調査報告書』である[日本財団海洋船舶部2002]。そこでは回答数1122件、回答率約40%で、479人の船大工の名前が抽出されている。
これらの資料を参考にしつつ、これまで実施してきた在来船の調査研究にもとづき[出口1995、1996、1997b、2001など]、今回の船大工調査で筆者が留意したことは、以下の点である。
諸職調査でもうたわれている伝統技術の保存に一歩踏み込み、本調査を具体的な手だてにむかう資料とするには、木造船の建造経験を持つ職人の存在確認だけではなく、個々の船大工の建造実績や現状、実際の建造意欲や記録保存の協力など文化財への理解をふくむ「人となり」を知ることの重要性である。
そのことをふまえ、筆者は、すでに調査経験のある、京都・滋賀・石川・富山を担当し、おもに面談による聞き取り調査を実施した。一部は、以前筆者が実施した調査データや既存の資料などももりこんだ。
その結果、京都府では3人、滋賀県で3人、石川県で3人、富山県で3人の木造船技術をもった船大工を確認した。また、船に付属する道具造りとして、富山では、明神清氏という櫓大工の存在も確認した。
これらのなかには、先の諸職調査、アンケート調査には登場していない方々が含まれている。もっとも、このたびの調査は、担当した地域の船大工の網羅を目的としてはいないので、腕として、口承として技術経験を伝えられる船大工はこのほかにもおられるはずである。
重要なことは、ここに記した方々が、すでに船大工職を退いて久しい富山県滑川市の1名(川尻太一氏)をのぞけば、おおむね現時点で木造船(あるいは櫓)を建造することの可能な船大工ばかりであり、文化財保存の主旨も理解しておられることである。また、滑川市の元船大工・川尻氏の場合も、すでに道具を手放して久しいが、技術・習俗の聞き取り調査においてはすぐれた情報提供者である。
船大工の木造船建造への意志もさることながら、文化財への理解、記録保存への協力関係は、製作工程の記録をする場合、不可欠である。それらは、記録者との相互の信頼関係の構築なくしてはありえず、反復的な聞き取り調査を重ねるなかではじめてえられるものである。今回の調査で、建造の意志や文化財への理解を含めて確認しえたのは、これまでの調査経験によるところが大きい。したがって、建造にあたれる船大工の今後の確認調査でも、やはり地道ながらこのような方法によってつめていくことが望ましいと考える。
2. 船大工調査の結果から
船大工現存調査基礎カードには、経歴・過去の木造船の内容等、書式にしたがって一応の記入をしているが、経歴などには答えにくいものもあった。たとえば、だれに習ったかという設問は、弟子いりした造船場の親方を指していると考えられるが、実際にはその造船場の兄弟子が直接指導し、親方には習っていない場合がある。また、船大工は渡りの慣習によって、行った先々で丁稚時代とは異なる技術を習い、腕を磨くといった処世方法がみられる。このほか、材料の入手先なども時代によって異なる場合がある。そのため、基礎カードに記載した内容はおよその傾向と判断されたい。
さて、平成14年度より日本財団では小型木造船の建造と記録保存の事業に着手され、中島町瀬嵐の棟梁・澤田慶三郎氏を中心に、邑知潟のチヂブネの建造が開始されている。すでに伐採の現場にたちあい、調査記録もはじめている。
澤田氏が72歳であるように、船大工は高齢者が多い。その年齢に照らせば、今後の建造記録の事業も、猶予が許されない段階であることを再度強調しておきたい。
船大工の現存調査と併行して、すみやかに建造とその調査記録の事業を実施していくこと、そして、その調査記録を順次公刊していく息の長いプロジェクト体制の確立が、現代日本の船大工と木造船技術の実態に照らしたとき、もっとも時宜にかなった方法といえる。
求められるのは、確かな選定の目と敏速な判断、船大工との信頼関係の構築とともに執ようで丹念な記録、そしてそのすみやかな公開である。
もはや木造船の船大工職が生活と直結し、生活していくことで円滑に技術継承がはかれる時代は終わった。各地の地域博物館が、モノの収集だけにとどまらず、積極的に展示保存するモノを造り、記録する事業と取り組みはじめているのは、展示物としての船造りが技術記録の貴重な機会であり、もはや今をおいて将来にはありえない「最後」という自覚によっている。
さらに近年では、函館の船大工・山田佑平氏の『船大工考』(1993)、中島町瀬嵐の船大工・澤田慶三郎氏の『丸木舟と五十年』(2001)などのように、船大工みずからがその生活経験を省みて記録に残す動きも生まれている。
このような残されたモノ、観察され、語られた記録を通じて、われわれは日常では目にすることができにくくなった海・川にかかわる船の技術文化や歴史を深く知ることができるのである。
3. 緊急性の高い事例
2002年の『木造船に関する基礎調査報告書』[日本財団2002]でも明確なように、現存する船大工の年齢構成は70代前半にピークをもち、40代・50代はもはや数少ない「若手」に属している。
70代前半の船大工層とは、木造船の需要がまださかんであった戦後まなしに一人前の船大工として、在来の木造船を豊富に建造できた世代である。
戦中は統制をうけ、企業合同などによって軍需に限った建造を余儀なくされていた浦々の造船場も、戦後になり企業合同が解かれると、漁船や運搬船など人々の生活に供する木造船が造られるようになった。昭和20年代、戦地から復員した人々の多くは、生活の場を海や川にもとめ、各地の造船場には木船の注文が相次ぎ、活況を呈したという。つまり、今日60代後半の木造船船大工たちはこの頃に10代前半で弟子いり経験をした最後の木造船職人たちであるが、かれらが一人前になった段階では木造船のなかでも洋型船・折衷型船などが多くなり、伝統技術をじっくりたたきこむことは難しくなりつつあった。その点、数の多い70代前半の層とはわずか2・3年の開きでも経験に大きな相違がある。
たとえば、京都府舞鶴市にある市川造船の棟梁・和田嵩氏(昭和9年生まれ)の場合、昭和24年、15歳で当造船場に丁稚にはいった[出口1999b]。当時この造船場は、トモウチ(トモブト・マルキブネともいう)と呼ばれる農漁に使われるオモキ造りの小型木造船を専門とし、和田氏も丁稚時代には親方についてその手伝いをした経験をもつ。しかし、トモウチの建造は修業の時代をのぞけば、その後一本だちした段階で、新造を手がけたことはなく、和田氏は洋型木船やテンマなどの板船をもっぱら建造してきた。
その板船の新造の仕事も1980年代にはほとんどなくなり、その後はFRP船の補修・掃除を手がけて生計をたてている。それでも木造船の仕事がわずかにあり、1992年には神事用の木造船を、1994年には、福井県高浜町上瀬の漁師の注文を受け、テンマ船の新造をおこなっている。
舞鶴市の木造船場は現在、この1軒である。
市川造船は、舞鶴では近世期から8代続いた造船場であり、和田嵩氏はその伝統を受け継ぐ最後の船大工棟梁である。後継者はおらず、手がけた船の保存や記録もこれまでなされてはいない。当人は文化財保存への理解や建造の意志をもっており、その腕は近年にみる木造船建造実績によっても確認している。後継者がいないだけに、舞鶴市・市川造船のナリウテンマは、建造と記録の緊急性がひときわ高いことを指摘しておかねばならない。
なお、京都府下の若狭湾岸では、このほか宮津市の船大工大門岩雄氏(昭和6年生まれ)がおられる。同氏によって製作されたトモブトは、すでに京都府立丹後郷土資料館に保存されている[井之本1991]。また最近では養老中学校の生徒に櫓こぎの船の建造を指導し、完成させてもいる[朝日新聞2002年4月1日]。
木造船造りの現実の多くは、もはや生活の船ではなく、郷土文化の遺産化、郷土教育の一翼を担う段階にたちいたっているのである。
また、船大工が減った結果、在地の需要に対応するだけではなく、遠方から神事等の目的で使う船の依頼をうける例がしばしばみられる。先の市川造船の例のほか、滋賀県の松井造船も京都の寺の船を手がけており、同じく滋賀県の畑三郎氏の場合は、京都太秦の映画村で使う川船を造っている。
こうした傾向は今後一層強まるだろう。
今回の調査結果から、建造・記録の対象選定にあたっては、「後継者がいて技能として技術継承がはかれる可能性のある場合の優先」とあわせ、「後継者がおらず、いまを逃しては技術記録ができなくなる場合の優先」に配慮し、その文化的重要度や緊急性に照らして敏速に判断していくことの必要性を痛感した。
4. 若手船大工の存在
日本の木造船技術は、工法の洋式化、さらに鉄やFRPに素材が代替されていくなかで、昭和30年代以降は、次代の木造船職人が育つ余地はきわめて乏しかった。磯廻りの沿岸漁船や川船などにかろうじて木造船をもとめる漁師がおり、そうした細々とした需要に対処してきたのが実態である。
したがって40代、50代で木造船技術をもつ若手職人は、丁稚修業から経験をつんだたたきあげの職人は少なく、むしろ造船場の後継ぎとして継ぐことを余儀なくされてきた者が多いと判断する。しかも、かれらは木造船を主たるなりわいとしてはおらず、むしろ他に職をもつことで、細々とした木造船の需要にも呼応できる体制をつくりあげてきたのである。結局、せいぜい数年に1度、20年ぶりといった頻度の建造状況では、たとえ建造意欲があっても技術を維持し、高める機会に乏しいのが現実であり、そこに技術継承の難しさがある。
それゆえ博物館の展示を目的とした建造の機会は、こうした若手船大工の経験の場を提供しうる機会となっており、基礎カードの若手船大工たちは、いずれもそうした製作事業に携わっている。博物館の積極的な関わりをなくしては、もはや木造船技術の習得の機会はほとんどないといってもよいほどなのである。
たとえば、富山県氷見市の番匠光昭氏(昭和21年生まれ)の場合、先代の故番匠宅平氏は氷見の灘浦地方を中心に定置網漁の網船であるオモキ造りのドブネなどを専門とする船大工だった。後を継いだ光昭氏はテンマやカンコ、4トン程度の木造船の建造を手がけてきたが、ドブネについては昭和30年代、すでに新造の仕事はなく、改造・修繕に従事した程度だった。新設の氷見市立博物館の展示資料としてドブネ船首部のカットモデル(原寸)と模型が1981年に製作されるにあたり、当時高齢であったドブネの船大工・東度氏の指導のもと、実際の作業を手がけたのが番匠氏である。なお番匠氏は、2002年久々に注文のはいった木造のテンマ船の建造も手がけている。
さらに、富山県中島町瀬嵐の澤田承夫氏(昭和29年生まれ)の場合、カキ養殖に従事する一方、FRP船をおもに手がけてきたが、オモキ造りのマルキブネ棟梁である父、澤田慶二郎氏のもとで、1998〜2000年にかけてあいついで3数艘のマルキブネ建造にかかわっている。中島町、海の博物館からの依頼のほか、能登島の漁師による注文が加わって実施された建造であった。
また、琵琶湖、大津市の松井三男氏(昭和22年生まれ)の場合、棟梁である父、松井三四郎氏のもとで造船場をきりもりし、鉄船をおもに手がけてきた。それまでも田舟や漁船など修理を中心に木造船の経験はあったが、琵琶湖の舟運を担った百石積み丸子船は、戦後ほとんど新造がなかったものである。したがって、1996年開館の滋賀県立琵琶湖博物館の展示資料として、1993年2月から本格的に実施された帆走丸子船の復元製作は、父三四郎氏にとってもおよそ50年ぶり、息子三男氏にとっては最初の丸子船であった[出口1997b、1999a]。近年では、生活現場にみる丸子船は湖北の1艘のみとなり、今後新造される機会はなさそうに思われたが、最後の丸子船船頭、山岡佐々男氏の引退を契機として、この湖北にあった丸子船は、2001年末から新たな船主のもとで大幅修理がなされた。2003年に観光船として琵琶湖に浮かべられる計画で最後の追い込み作業が続けられている。結局、松井三男氏は、棟梁松井三四郎氏のもとで、2艘の丸子船製作にかかわるなかで、その技術を習得し、その間数艘の木造漁船なども手がけるなか経験を積んでいる。
すでに技術を生活の場に定着させることはむずかしいかもしれない。たとえ、そうであれ、その技術を形にし、記録し、遺産として残すことはできるはずである。そのような営みを続けることが、在来船の技術遺産を蓄積し、なおかつ遺産を遺産に終わらせない営みにつながっていくと考える。
各地の民具や文化財が示すように、モノは人間より長い寿命をもつ。それがゆえ、モノに託して歴史文化を残すことは大切だが、モノだけがあってその伝承が備わらない場合も少なくない。形にならない伝承を知り、伝えるには、なんとしても生きて働く人間の行為なくしてありえないのである。建造とその記録の緊急性、重要性はこの点にかかっている。
文献
井之本 泰 1991「丹後のトモブト製作について」『近畿民具』15:35−45。
京都府教育庁指導部文化財保護課(編)1994『伝統の手仕事』。
澤田慶三郎 2001『丸木舟と五十年』。
出口 晶子
1995『日本と周辺アジアの伝統的船舶−その文化地理学的研究』文献出版。
1996『川辺の環境民俗学−鮭遡上河川・越後荒川の人と自然』名古屋大学出版会。
1997a「越後荒川の船大工稼業−地域社会に生きる」浮田典良編『地域文化を生きる』大明堂、PP.85−101。
1997b『舟景の民俗−水辺のモノグラフィ・琵琶湖』雄山閣出版。
1999a「丸子船の復元−再生する人・モノ・技」用田政晴・牧野久実編『琵琶湖博物館研究調査報告』滋賀県立琵琶湖博物館13:17−52。
1999b「港の景観−造船場のむこうは海舞鶴」鳥越皓之編『景観の創造』(講座人間と環境4)昭和堂、pp.144−167。
2001『ものと人間の文化史丸木舟』法政大学出版局。
富山県教育委員会 1992『富山県の諸職−有形民俗文化財関係資料保存調査報告書』。
日本財団海洋船舶部 2002『木造船に関する基礎調査報告書』。
文化庁保護委員会 1962『蔓橋の製作工程・「どぶね」の製作工程・「ともど」の製作工程』。
文化部文化財保護課(編)1991『滋賀県の民具−滋賀県有形民俗文化財収集調査報告書11』滋賀県教育委員会。
山田 佑平 1993『船大工考』。
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