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 チョゴリからTシャツとGパンに着替え、ピンクのエプロンをつけながら笑っている。
 「すまないねぇ。帰ったばかりなのに」
 母ちゃんは、美麗に駆け寄り、エプロンのひもをむすんでやりながらお礼を言った。
 「今朝、港の市場で買ったイカとエビがあるよ。『海の幸キムチチャーハン』にしたら」
 オンマの言葉に美麗はうなずいて、洗濯機くらいの大きさのキムチ専用の冷蔵庫から、プラスチック容器を取り出した。中に、燃えるように赤いキムチが透けて見える。
 「海をはるばる渡ってきた祖国の香りよ。健にとっては、たくあんの香りかな」
 美麗が、容器の蓋を開けた。
 とたんに、すっぱいような、鼻の先がツンとくる、唐辛子のにおいが台所中に広がる。
 「初めての時は、変なにおいだったけどな。慣れると、ええ香りのように感じるなぁ」
 ぼくはつぶやきながら、鼻いっぱいに息を吸い込んだ。オンマが、ニコニコして言う。「なんで、父ちゃんとケンカしたんで?」
 ぼくは、うつむいてボソリと言った。
 「朝鮮の踊りを意味もわからず、化粧して踊らんといけんのは、この町に海があるからじゃ。昔から、色んな国のものがきたのを深く考えもせずに受け入れてきたからじゃ。オリーブを育てる父ちゃんも、個性がねえ言うたら、電光石火怒りだしたんじゃ」
 オンマを上目づかいに見ると、考え込んだ表情になり、肩で「フッ」と息をして、
 「そうか。健君にとっては、海は、相手をへだてる、お互いを離すものなんじゃね」
 と、さびしそうにつぶやいた。それから、ぼくが、小さくうなずいたのを確認した後、
 「私たちはね、海は越えるもの、そして、相手とつなぐものって考えてるんよ」
 と、語気を強めて言い切った。
 「そうでないと、私たちは安心して海を越えて外国へ行けないし、ましてや、祖国を出て、言葉も文化も異なる国へ、ずっと住もうとは思わないよ。受け入れてくれる国や人、文化がそこにあるから、私たちのおじいさんやおばあさんは祖国を離れる勇気が生まれたんよ」
 オンマは、見たこともない真顔で続けた。
 「唐子踊りを町の子どもが踊るのを私たちは、心からありがたいと感謝しているんよ。外国から伝わった踊りを民族衣裳を着て、外国語で歌い、それも一番盛大な祭りにしてくれるなんて、海から来たものを尊重する温かな牛窓の人たちのおかげじゃいうて。おじいさんもおばあさんも喜んどったんじゃから」
 ぼくの頭の中をオンマの言葉が旋回する。
 (海は越えるもの、相手とつなぐもの)
 ぼくが思ってきたのと正反対だ。
 (海は陸と陸をへだてるもの)ではなかったのか。牛窓の人は、そう考えたから、色々な文化が交じり合う港町を作ってきたのか。
 「健君、絵の具を思い浮べてみて」
 オンマは、ぼくをじっと見つめて言う。
 「たとえば赤。一つのチューブからは、純粋な赤しか出て来んけど、ピンクや青を混ぜてごらんよ。緑っぽい不思議な色になるじゃろ。牛窓も、そう。海から来たものをミックスさせて、ひと言では言いきれん深い色合い、建物や文化や職業が生まれたんじゃと思うよ。海は、互いの色をまぜ合うパレットみたいね。健くんのお父さんが作ってるのも、牛窓独特の深緑の大粒オリーブ。エーゲ海のと違うわ」
 オンマは、ひと言ひと言、自分自身にも言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を発した。
 「そうよ、健。韓国を代表する食品は、真っ赤なキムチ。赤は太陽の色、元気の象徴。日本を代表する食品が、たくあんや味噌や納豆なら、黄色は月の色ね。優しくて穏やかな象徴。そして、この町の姉妹都市ギリシャは、さわやかなエーゲ海の青い色。赤を運んだ海、黄色を送る海、友好の手を結ぶ青い海。ここの海は、三色が混じり合う、パレットみたいじゃない? わたし、すべてをドーンと受け入れてくれる、この牛窓が大好きなのよ」
 美麗が中華鍋を軽やかに混ぜながら言った。
 「健がくだらんこと言うから、真面目な話になってしもうて。ごめんなさいよ」
 母ちゃんが、ぼくの頭を軽くこづいた。
 ぼくは深く息をした後、きっぱりと言った。
 「決めたで! 今年は心を込めて踊る。海がつないだ韓国をもっと知りたくなったんじゃ」







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