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 「えらそうなこと言うな!なーんもわかってねえくせに。昔からのものを大切に受け継いでいくのも、海からくる新しいものを受け入れるのも、わしらの責任なんじゃ」
 ぼくは、いつ、そのゲンコツが飛んでくるかと、ヒヤヒヤしながら続けた。
 「アホらし。じゃから、この港町は進歩せんのんよ。父ちゃん、唐子踊りのおはやしの意味わかるんか? だれも知らんくせに。あー、腹へった。母ちゃんは?」
 父ちゃんが叫んだ。
 「出ていけ!海でも見て頭を冷やせ!母ちゃんは、金さんのところにおるから、よう、説教してもろうてこい。はよう、行け!」
 相変わらず、短気な父ちゃんだ。
 ぼくは父ちゃんの横をすりぬけ、大急ぎで青いビニールサンダルをはいて玄関から出た。
 自転車にまたがり、長い坂を下りてゆく。
 スーッと、秋の風がほおをなでてゆく。
 下るにつれて、カモメの声が聞こえてくる。
 道の両脇に並ぶオリーブの木に、黄緑色の実が鈴なりに見える。
 段々畑には、早採り白菜と夏大根が豊作だ。
 潮騒を聞くと、どこか安心するくせに、きょうは、何もかも否定したい。
 父ちゃんが、「よし」と言うことをすべて拒絶したい気分だ。
 「海があるから、あれやこれや外国のつまみ食いしとるで、この町は! 海は、陸地をへだてるものじゃ! 父ちゃんの石頭!」
 ぼくは、自転車を思いっきりこぎながら、大声で不平不満を並べ続けた。と、突然、
 「そこの暴走自転車、逮捕するぞ!」
 かん高い女の子の声。ぼくは、振り返った。
 うすいピンクのチマチョゴリを着た美麗が、仁王立ちでぼくをにらみつけている。幼稚園まで一緒だったけれど、小学校から彼女の姉と同じ、岡山市の朝鮮学校へ通い始めたのだ。
 「なに大声出してんの? うるさいわよ。それに、スピード出しすぎ、速度違反!」
 洋風の真っ白い建物、『海遊文化館』の玄関に立っていた美麗は、相変わらず気が強そうに、シャキッと背筋をのばしたまま走って来た。チマチョゴリのそでが、羽衣のように揺れる。はかまの形の赤いスカートも、フワリフワリと足の動きにつれて広がる。
 「あぁ、美麗んちに行くところなんじゃ」
 ぼくは、ほおが熱くなるのを感じながら、自転車からおりた。色白の美麗は、チマチョゴリが似合う。民族衣裳というのは、どこか相手を圧倒し、空気をひきしめる魅力がある。
 彼女はぼくをのぞきこみ、
 「えっ? 何の用事?」
 とたずねた。ますます心臓の音が速くなるのを気づかれないように、呼吸を整えて答えた。
 「母ちゃんが、金さんちに行ってると聞いたから。昼ご飯作ってって、迎えに行くところ」
 「健も、ご飯ぐらい作りなさいよ」
 美麗は、ぼくの背中をポーンとたたき、横に並んですたすたと歩き始めた。
 「なんで、海遊文化館に行ってたの?」
 彼女は、『海遊文化館』を振り返った。
 「自分のルーツを知りたいのよ」
 「ルーツ?」
 ぼくは、聞き慣れない言葉に美麗を見た。
 「そう、海を渡って日本に来た、私の祖先」
 美麗は、ぼくに背を向け、朝鮮通信使の資料が展示されている『海遊文化館』を向いたまま言った。彼女の首の後ろに、団子のようにまとめて結い上げた髪から出た、やわらかな髪の毛が数本、潮風に揺れている。
 「健は日本人だから、こんな疑問を持たないかもね。自分の国を離れ、海を渡る勇気や決心がどんなものだったか。なんで牛窓を選んだのかとか、祖先が持ってきた伝統や風習が、どんなにアレンジされて受け入れられているとか、ね。健には、難しすぎるね、きっと」
 フフフと笑いながら振り向いた美麗は、ぼくよりも、年上に見えた。
 「今、学校で踊りを習っているの。朝鮮の踊り。この国で言えば、日本舞踊かな。見てて」
 美麗は、黒い布製の学生カバンを地面に置き、白い鳥の羽根でできた扇子を二本取り出し、ゆっくりと広げた。
 それから、バレリーナのようにつま先立ちし、広げた扇子を持った両手を頭の上でクロスした後、鳥が飛ぶように、手を下ろしたり上げたりしながら、うなずくように頭を振り、右へ左へ体を揺らせながら移動していく。
 美麗は、青空へ突き抜ける声で歌い始めた。







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