日本財団 図書館


 九時をまわったころ、男は再び公園の繁みのなかから現われた。汗のしみついた小銭入れを手のなかに握り締めている。だだっぴろい公園を南へ突っ切ったところに、緑色の公衆電話ボックスが立っていた。男はその電話ボックスめがけて歩いてゆく。ボックスの前に落ちていたタバコの吸い殻を男は拾い、ポケットのライターを取り出してふっと煙を吐いた。緊張しているのか、男は何度も何度も喉仏をうごかし、唾をゴクリと呑み込んでいる。
 男は無人の電話ボックスのドアを開けて、なかへ滑り込んだ。顫える手つきで小銭を穴の中へ落とした。一枚、二枚、三枚・・・。
 長い間忘れていた自分の苗字と名前を言うと、電話の向こうで女の声が局番と六ケタの数字を言った。それを聴いているうち男の頭のなかにかすかな火が点じられた。教えられた通りの番号を持っていた紙切れにちびたシャープペンで写し取り、その番号をプッシュした。送話器に強く耳を押し当てた。見えない電話線のかなたでベルがかぼそく鳴っている。
 いるのか、いないのか、男は不甲斐なくも小便をちびりそうになった。送話器を置いて、ボックスの壁にもたれかかった。怖くてそれ以上、ベルの音を聴いていられなかった。
 男はしばらく考え込んでから、電話ボックスを後にした。繁みの奥のダンボールハウスのなかにもぐり込み、うとうとしかけた。一時間も経つと再びむくりと起き出した。向かった先はやはり電話ボックスだった。
 今度は酔っ払ったスーツ姿の男がボックスのなかでよろけながら話し込んでいた。
 男は酔っ払ったサラリーマンをやり過ごしてから、電話ボックスのドアを開けた。先程と全く同じことをした。ベルの音が鳴り出すのをじっと耳を澄ませて聴いた。それを何回か繰り返した。男はどうしても電話をかけたいのだが、相手の声を聴く勇気が出ないらしい。深夜まで男の儀式はつづいた。飽きもせず、電話ボックスヘ通って、飽きもせず小銭を落とし、遠くで鳴るベルの音に一心に耳を澄ませた。
 記憶の滑車は勢いよくまわり出していた。七回目に男が小銭を落としたとき、電話線の向こうで息を詰めたような女のかすれ声がひびいた。
 「あんた?・・・あんたなのかい」
 電話番号はやはり昔と変わっていなかった。そう思うと、錆びついた男の脳にどくどくと新しい血液が流れ込んだ。男はもう少しで受話器を取り落としそうになり、辛うじてこらえた。
 地べたを這う病葉(わくらば)みたいにどこへ吹き寄せられ、どんなみじめな暮らし方をしているときでも、俺にはりっぱな女房とりっぱな跡取り息子がいるのだと、行き交う人ごとに胸を張って言ってやりたいような気持ちが男の中にあった。結局、それがこの年まで放蕩をつづけながらも、生きるだけは生きて来れた男の最後の支えになっていたのだ。
 「あんたなんだら? もう何も言わないから、帰っておいでな、哲次も大きくなっとるで」
 女は電話の向こうですすり泣いていた。
 泣き声は乱れ、少しずつ大きくなって、
 「じいは丘の上の老人ホームに入ってるぞな、あんたが帰って来て、顔を見せたらボケもいっぺんに治るだらあ、きっときっと帰ってな」
 切れぎれに訴えている。
 男は最後まで一言も口を利くことができなかった。帰ろうにもおまえ、こんなみっともない恰好じゃ戻れるわけないぞな−−。
 よっしゃ、半年、一年、どこかいい稼ぎ場を見つけてよう、みっちり働いてよう、金をたんまり懐ろに入れて、戻ってやるからよう、それまで元気で待っちょりん。
 男は自分の心のなかでだけそう呟いている。
 「哲次も高校一年になったでな、家のこともよう手伝ってくれよる、あんたにだんだん目鼻立ちが似て来とるで、どきどきすっことがあるぞな」
 言いながら電話線の向こうの女は、男の息の音までも聴き取ろうとするかのようだ。
 今度、タコ糸が切れてしまったように空中へ舞って行ったら、二度と岬のあの家へ戻る日はあるまい、そんな恐怖が突然、男の全身をわななかせた。
 
 同じ日の夕方、哲次はバスで一時間ほど揺られた隣町にある、丘の上の老人ホームの一室で久しぶりにじいと向かい合っていた。
 「どうな? アサリ汁はうまいか?」
 ベッドの上に上半身を起こして、じいはアサリ汁の椀を両手のなかに抱え込んでいた。
 「ああ、海のにおいがするぞ、潮のええにおいがするぞな」
 じいは上気した頬を子供のようにゆるめて、哲次を見た。三人部屋の中央に置かれたテレビがローカル特集を組んで流しているなかに、哲次と安雄が伊良湖岬の浜で拾って来たやしの実のニュースが交じっていた。町長室に安雄と案内され、笑って、笑ってと指示された場面だ。哲次たちがやしの実を捧げ持ち、こっちを向いている。後ろの方から観光協会の若い男と禿げたおやじさんが覗き込んでいる。
 「じい、俺だぞ、俺がテレビに映ってるぞな」
 哲次がじいを振り返った。
 すると、耄碌(もうろく)したじいは白濁した膜のようなものでおおわれかけた目を一瞬、見ひらくようにして、
 「テツオか、おまえ、ようやく岬に戻って来たがや」
 と咳き込んだように言った。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION