日本財団 図書館


3
 名古屋市港区、廃材と解体されたコンクリート瓦礫のうずたかい山が連なる埠頭の一角に、大衆食堂の看板をかかげたみすぼらしい木造二階家が建っている。塗りの剥げた外壁、店名入りのネオンも壊れかけているのか、チラチラと頼りなげに点滅していた。
 夕闇の迫る時刻になって、食べ物の匂いや湯気の立ち込める店内はごった返していた。どの卓も、汚れ果て擦り切れた作業着に草履ばき、煮染めたようなタオルを首に巻いた男たちであふれている。カウンター脇のガラス越しに焼き魚や冷や奴、納豆、卵焼き、漬物、ジャガ芋の煮っころがしみたいな一品物を盛りつけた器がずらりと並んでいた。客の注文でさっと出せる仕組みになっているらしい。
 客の目の高さに置かれた旧式のテレビが夕方のローカルニュースを伝え出した。ちょうど伊良湖岬に流れ着いたやしの実のことがレポートされていて、やしの実を浜で拾ったという高校生二人が画面に大写しになっていた。
 画面下にそれぞれの名前がテロップで流れる。入り口近いテーブルに相席して丼めしを掻き込んでいた男の一人が、ふと目を上げてテレビの画面を見た。それまで食べるのに夢中だった男の表情に変化があらわれた。箸をうごかす手が止まった。テレビの画面では高校生二人が人間の頭くらいの大きさのものを両手に捧げ持って、こちらを向き、白い歯を見せて照れ臭そうに笑っている。
 川口安雄君と森下哲次君−−テレビに目をやっていた男の顔色がわずかにうごいた。もりしたてつじ−−も、り、し、た・・・てつじ−−何日も洗わない埃だらけの顔、風呂になど長いこと入ったこともなさそうな垢まみれの男の表情に人間らしい色が兆した。それまでは喜怒哀楽の表情を浮かべることさえ億劫そうだった男のぼやけきった顔が、何かを思い出そうとするようにうごき始めた。
 男は、実は自分の名前さえこの数年忘れかけていた。十年以上も、周囲の誰からも苗字や名前を呼ばれた試しがなかったからだ。ドヤ街で日雇いの仕事をもらうために朝早く行列をつくったりするとき、男はその日の気分で勝手な名前を思いついて、その名前を言っていたから、自分の本名が何だったのかをそっくり忘れ果てていた。かつてない不況の波は男たちのような下積みの日雇い労務者の上にももろにかぶさって来て、男は昨日までの三日間仕事にありつけないでいた。
 今朝は夜の明けきらないうちから行列の先頭に並んで、タンカーの積み込み作業に雇われ、夕方の六時過ぎまでこき使われて、ようやく三日ぶりの温かい飯にありつくことができた。ほかほか湯気の立つ丼めしを前にして、男ははらはらと涙を流し、まぶしくかがやく銀しゃりを一口含んだ。何とも言えぬ香ばしさと、ふっくらした飯のぬくもりに男の目尻を温かいものがつーと流れた。
 空腹のあまり、昨夜はついに公園の残飯あさりをしてしまったのだ。野良犬が先に来て、弁当滓を引っ張り出したところだったので、横取りしてなかの照り焼きチキンとか、腐った妙め野菜だとかをがっついた。痩せて、あばら骨の透けて見える野良犬が、諦めきれない顔をして擦り寄って来たから、男は尻を思いきり蹴っ飛ばしてやった。
 このごろでは男は三日か四日に一回しか仕事にありつけないでいたから、あぶれた仲間と連れ立って飲食店の裏で残飯あさりをすることがだんだん多くなっていた。
 とうとう俺もここまで落ちぶれたか・・・。
 女狂いのすえによちよち歩きの赤ん坊とまだ若かった妻とを置き去りにして、黒潮めぐる故郷の岬を出奔してから十五年、男の脳裏を思い出すまいと努めて来た岬の風景が走馬灯のように浮かんでは消えた。
 なぜだかわからない、消し去ろうにも消し去ることのできない故郷の家の庭、赤や黄色の燃え立つようなカンナの花の咲く門口で顔いっぱい口をあけて泣きじゃくっている赤ん坊の姿や、引き締まった尻でぷりぷりはたらく妻の快活な笑顔が見える。
 男は一瞬、テレビ画面に釘付けになった。そして、そうなった自分がなぜなのかわけがわからなかった。見覚えのない高校生の顔が二つ、こっちを向いて笑っている。
 記憶の糸が弾けた。
 どこかで、どこかで聴いたことのあるような苗字ではないかと思う。しかも待てよ、てつじ、て、つ、じ・・・そんな名前の子供がむかし、男のまわりに居たような気がする。
 どこかで、確かに逢った覚えが・・・そう思い始めると、記憶の糸が少しずつ、ゆっくりとほぐれ出して、その苗字にも名前にも妙に聴き覚えがあるような気がして来た。
 男はテレビの画面が別のニュースを流し始めても、食い入るようにその画面を凝視していた。男の歯は無頼の果ての食ったり食わなかったりする自堕落な暮らしのせいで、上下共半分がた無くなり、洪水のあとの河原に傾いた棒杭のような有り様になっていた。
 それが男の風貌を実際の年齢より十も二十も老け込ませている。
 男は飯をあちこち歯の抜けた隙間からぼろぼろこぼし、味噌汁を口の端から垂れ流しにしていた。そんな自分に気づきもしない様子で、テレビの画面に吸い寄せられていた。
 男の目は画面を見ているのでなく、その奥の見えないものにじっと注がれているようなのだ。そんな奇妙な男に周囲の誰も視線を注ぐ者はいない。空腹を満たすことに熱中している客たちはその日その日を生きるのが精いっぱいの労務者や、ホームレスのような人間たちばかりなのだ。
 彼らの頭のなかは今夜のねぐらをどこに探すかでいっぱいになっているし、定宿となる簡易宿泊所や公園や駅裏にダンボール邸を持っている者らは、明日もいい仕事にありつけるか、満腹になることができそうかの心配をしているのだから、ぼろきれのような男の一人や二人に構ってなどいられないのだ。
 店を出た男はいつもの公園のねぐらへ戻って行った。道々、混雑した通りで男と肩が触れ合うと、通りすがりのこざっぱりしたなりの男女が汚いもののように、男と触れた部分を手で払って遠ざかるさまを、男はわざわざ振り返って観察している。
 街灯に照らされた道路端に屈んで、男は捨てられたタバコの吸い殻を拾い、破れた上着のポケットの中をごそごそかきまわした。使い古したライターを取り出している。さも大切そうに短い吸い殻に火を点けてから、フーッと白い煙を吐いた。昨日、弁当を横取りした茶褐色の痩せた野良犬がよぼよぼ歩いて来て、仕返しのように男の足元へ小便をかけてゆく。男はチッと唾を吐き、乱暴に犬を追い立ててから、道路と公園とを仕切る繁みの向こうへ消えた。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION