灯台の足元までやって来ると、邦彦はごつごつした大岩の上に腰かけて沖を眺めた。超高温の透明な炎に包まれた壮大な夕日が、鈴鹿山系の背にちょうど沈みかけるところだ。
左手に目を転じると、夕映えにかがやく水平線の彼方まで見渡すかぎりの水、水、水が満ちあふれ、太くて長い黒潮の大河が沖の方に盛り上がってどうどうと流れているのがわかる。幾千万種の魚たちの命をはぐくみ、太古からの眠りを揺らす母なる黒潮の流れだ。
邦彦は石垣島の沖合二十キロ地点の黒潮のまっただなかへ、初めて乗り出した日のことを思い出した。島の人たちは若い娘を含めて、舳先を激しく上下させる荒波にも平気な顔で船のなかを歩きまわり、喋ったりしているのに、邦彦だけがからきし船に弱くて、ひどい船酔いに苦しめられた。何千、何万の肥え太った蛇がとぐろを巻いて威嚇(いかく)しているかのような猛々しい波のうねりを眺めていると、目がくらんで甲板に立っていられなくなった。寄り掛かるものを求めてデッキに座り込み、やしの実流しを始めるまで堅く目を瞑っていた。
「おい、クニー、島の娘さんらがおまえを嗤っているぞな」
浅田のおやじさんに、脇からそう冷やかされても言い返す余裕がない。
やしの実を自分の受け持ち分だけ流し終えると、再びデッキにへたり込んだ。帰りの船のなかで胃袋の中身を全部吐き出した。
娘たちには眉をひそめて逃げられるわ、
「戻ったらよう、漁師船に弟子入りして性根を叩き直してもらわんとならんの」
と、渥美町からいっしょに参加したおやじ連中にはあざ笑われるしで、船を下りるまで恥のかきどうしだった。
二年目からは船酔いの薬を飲んで乗り込むようになったから、最初の年のようなドジを衆人の目にさらすことはしないで済んだ。
四年目からは薬なしでもようやく外洋の船旅に耐えられるようになった。
十四年間に流しつづけて来た千五百八十九個のやしの実のうち六十一個が国内のどこかの海岸で拾われ、拾った人と流した人とのペア五組を毎年、渥美町へ招待するのが邦彦たちの仕事だった。太平洋にのぼる朝日の眺めがひときわ美しい日出(ひい)の石門に近い日出園地で対面式を行ない、やしの苗木を記念に植樹したりして町長出席の盛大な歓迎会を催した。
対面式に参加した人たちのなかで邦彦が特に印象に残っているのは、暴走事故で片足を失い、義足をつけるようになってしまった若い男が失意の果てに死に場所を求めて、四国の室戸岬の浜をうろついているとき、流れ着いたやしの実を偶然拾った。男は対面式のために招待されて、初めて渥美町のことをくわしく知った。メロンと電照菊栽培では全国にもっとも知られた産地であること、数千万の農業粗収入を誇る農家も多くあり、大規模施設園芸の先駆けとして今では国内ばかりか、海外からまで視察に訪れる人たちが後を断たないことなどを知るに及んだ。
実際にメロン栽培の温室を見せてもらい、たわわに実った大粒の実を掌のなかに包み込んだとき、命の温かさが果肉の奥からじかに伝わったような気がした。何度か渥美町へ通ううち、メロン栽培に一生を賭けたいと本気で願うようになり、ついにはメロン農家に住み込んで働くようになった。農家は農家で人手がほしいときだったので、義足の青年を温かく迎え入れ、三度の食事も家族と共にするような雰囲気のなかで、自然にそこの娘さんと心を通わせるようになり、今ではその農家の将来の跡取りとして、メロン栽培に力を注いでいる。男は邦彦と顔を合わせるなり嬉しそうに寄って来て、市況についてやメロンのでき具合などを細かに報告してくれる。男の活気に満ちた表情、一度は死を思い詰めたことのある人間とはおもえない変貌ぶりに接するたび、邦彦はやしの実流しをつづけて来て、本当に良かったなあと思わずにはいられない。
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