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 たっぷりした音と共に、三つのグラスに薫りのいい液体が注がれる。それぞれが自分のグラスを捧げ持ち、さあ乾杯しようとしたところで町長があっとズボンの前を押さえた。
 「ちょっと待ってくれや、君たち、小便がこのごろ近うなっとるんよ」
 言うなりドアを開けて出て行ってしまった。
 町長の小便は長い。つい二、三カ月前、腎臓炎を患ってしばらく入院していたくらいだから、膀胱の調子が良くないらしい。
 小便の長さには待つ人間が疲れる。浅田のおやじさんはその辺を充分わかっているから、ちょっと総務課長と打ち合わせて来ると言い捨て、同じドアから町長の後を追うようにして出て行った。
 邦彦は一人取り残され、町長の机の上に置かれているやしの実を眺めた。目を細めるようにして丹念に眺めた。時間はたっぷりある。
 こうやって静まり返った町長室に、やしの実と自分とだけが向かい合って呼吸していると思うと、邦彦にはやしの実のかすかな鼓動と、呼吸音とが聞こえるような気がした。
 六月二十四日にこのやしの実が石垣島沖の黒潮本流に流されて、まだ四十日にしかならない。わずか一カ月そこらで、この人間の頭ほどしかないやしの実は、実に千六百キロの大海原を航海して、この渥美町伊良湖の浜へ漂着したというわけだ。
 こんなちっぽけな実が、健気にも太平洋の荒波にもまれ、怒涛のかなたへ押し流されて迷うこともなく、見えない磁力に引かれるようにしてこの渥美の浜へ流れ着いたことが、邦彦には眺めれば眺めるほど奇蹟に思えた。
 あっぱれなやつよ!と、何度も何度も声を上げて褒めてやりたかった。
 つい先日、この伊良湖岬でも風速にして四十メートルを越える台風が通過したばかりだ。そのときのことを邦彦はふと思い出した。あのときも海上は天地がひっくり返ったような大波が巻き上げ、物凄い時化に見舞われていた。そんな大時化もどこ吹く風の気楽さで、このちっぽけなやしの実は大海をぷかりぷかり漂っていたのだろう。時化の海に逆らったりせず、むしろ波をからかい、いなしでもする大役者の貫禄で呑気に漂い流れていたのだろう。ちっぽけなからだで、でっかいことをするやつだと、邦彦はしみじみ感心した。
 手のなかにすっぽり収まる、この度胸者の実が愛おしくてならない。
 それは十四年もの歳月をかけて、千五百八十九個のやしの実をこつこつ流しつづけて来た邦彦たちの労苦に対してもたらされた、黒潮からの最高の贈り物なのだ。
名も知らぬ 遠き島より・・・
 と藤村がうたったように、いや、それより前、台風の過ぎ去った翌朝、伊良湖の浜へ散策に出ていた若き日の大民俗学者がふっと目にし、拾い上げて両手のなかにしっかり包み込んだ、あの幸運なやしの実のように、それははるか南方からこの島国へと物や人を運ぶ海上の道が確かに在ることを、邦彦たちの目の前で証明したのだ。何千年、何万年のむかしから、誰も知らないとき、誰も知らない南洋の島のどこかで−−熟したやしの実がポトリと落ち、時をおいてまた一つポトリと落ち、或いは暴風雨に根こそぎされ、なぎ倒されたやしの大木から海面へ落ちた実が、或いはころころ地面を転がって行った実が、いつか波打ち際にまで辿り着いた。
 やしの実は幾つも幾つも干き潮の波に乗って、ぷかりぷかりと沖へ向かって漂い流れる。そのうちのさらに幾つかのやしの実は貪婪なサメの腹にも取り込まれず、北上する黒潮に乗って、幾年月はるかな航海をつづけた。
 縄のようにぽつんぽつんと浮かぶ琉球孤の島々を尻目に、やしの実の旅はどんどんつづいて、さらに大きな島の沖をめぐり、何度も大時化におそわれたりしながら耐え忍んで耐え忍んで、波間に揺られているうち、ある朝気がついてみるとぽかぽか天気の穏やかな伊良湖の浜に打ち上げられたというわけだろう。身内に湧く興奮を抑えきれないまま、なおも目を細めて見入る邦彦の前にありありと見えるのは、町長室の見馴れた木目の壁ではなくて、紺碧にかがやく太平洋の大海原だ。でっかいカツオやマグロを育て、アジやサバやイワシの大群をはぐくんで北の沿岸へ運ぶ、大きな大きな海のゆりかごの寄せては返す波の音が聴こえる。
 ありがとう、ありがとう、自分でも気づかない間に邦彦は机の上のやしの実を取って両手のなかに包み込み、静かに揺すってみた。中から清らかな波の音がした。
 不覚の涙で目の前が一瞬、見えなくなった。
 背後でドアのひらく音が聴こえた。
 小用を終わった町長と総務課へ行っていた浅田のおやじさんとが、廊下ででも鉢合わせしたのか連れ立って戻って来た。
 
 夕方のローカル番組では、伊良湖岬に漂着したやしの実のことがトップニュース扱いで報道された。テレビ画面に映し出された二人の高校生の斜め後ろに、浅田のおやじさんと邦彦の顔が刺し身のつまみたいに覗いている。
 午後いっぱい電話での取材や問い合わせの応対にかかりっきりになっていた。夕方の六時をまわってようやく乱れた机の上を片付け、町役場を出てすぐの目抜き通りのところで、自動車修理工をしている青年団の男にでくわした。地区別に組織している消防団の仲間でもある男は、邦彦の顔を認めるなり、
 「おい、クニーよ、テレビで見たぞな、十四年ぶりにやしの実が流れ着いたって?これから豊橋まで祝杯上げに走ろうぜ、おごっちゃるからよ」
 年に似合わない派手づくめの改造車の窓から、首を突き出して言う。
 「ありがたいけど、今日は遠慮しておくで、頼まれてる用事を済まさんとならんだらあ」
 「そうか、じゃあ、祝杯はこの次にしようぜ」
 修理工はニヤッと片目をつぶって車を急発進させた。邦彦はソアラを飛ばして国道二五九号線を伊良湖岬へ向かった。港の旅客ターミナル近くの駐車場にソアラを停め、岬の先端にそびえる白亜の灯台まで歩いてゆく。
 鳥羽港へ通う伊勢湾フェリーが対岸から白い船体を現わし、こっちの埠頭めがけてぐんぐん近づいて来る。海上ではかもめが騒がしく啼き交わしていた。船のまわりを高く低く付き従うように飛んで来る。







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