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 ソアラのローンのためと、割り切って働いてはいるものの、妙な場所からじわじわと今の仕事に対する愛着が湧いてくるようなのだ。
 だが、五時になったらおれは帰るぞ、あとは知らんぞね、が邦彦の通して来た基本的スタンスではあるのだ。
 ソアラの助手席に数カ月おきに別な女を乗せて走っているので、仲間からは結構羨ましがられたり、妬まれたりすることもあるが、たまには干上がっている者に釣って来た女をあてがってやったりするから、そこそこのところで爪弾きされずにいる。うまく行き過ぎと言えば行き過ぎの邦彦にとって、ここ何年か涙腺がうるうるすることなんか起こりもしなかったのに・・・。
 何なんだ、このむずがゆさは、と思っているうちに視界がどんどんぼやけて来たから、少し慌てた。
 いつもの邦彦らしくなかった。
 浅田のおやじさんの後ろから町長室へ行ってみると、田舎者の高校生らしいのが二人、ボサボサ頭を並べていた。森下哲次と川口安雄といい、町内に住む高校一年の友人どうしだという。肩幅の張ったがっしりした体格に、浅黒い漁師顔をした方が森下哲次で、短パンに黄色と黒の横縞のポロシャツを着ている。
 電信柱みたいにひょろひょろしていて、頼りなさそうな方が川口安雄だ。どちらかと言えば対照的な印象のこの二人がどうして気が合うのかわからない。
 遠浅の洲へアサリ採りに行っとったら、妙なものが磯へ流れ着いていたから、何気なく拾い上げたところ、渥美町観光協会の金属プレートが打ち込まれていた。
 そのときの様子を、町長室の卓を囲んで聴いているところへ、数人の男たちが総務課の職員に案内されて、どやどやと入って来た。
 「こちらがやしの実を拾った高校生ですか」
 口々に問う傍から、カメラのフラッシュが焚かれる。新聞社の支局から来たという、うでに腕章を巻いた記者もいれば、テレビの報道記者や、顔じゅう髭面のボクサーのようなカメラマンもいて、町長室はにわかにごった返した。
 何しろ、一九八八年七月に第一回のやしの実流しを石垣島の沖合で始めるようになってから、鹿児島県の種ヶ島や屋久島、奄美大島や徳之島、喜界島、串木野市の吹上海岸、白浜海岸、熊本県牛深市、天草郡の芦北海岸、長崎県福江市、土佐の高知、宇和島海岸、室戸岬、仁淀川河口などで、毎年二個から十個のやしの実が漂着したと、それぞれの拾い主から連絡が入った。
 十四年間で、流したやしの実の数は今年の分も合わせて千五百八十九個にのぼる。そのうち六十一個が黒潮寄せる国内のいずれかの海岸に漂着してはいたのだ。
 九州の各地で漂着しているのを発見されたのにつづいて四国、和歌山と黒潮に乗り、太平洋岸を北上して、三重県は鈴鹿市のつつみケ浦海岸、鳥羽市の安乗灯台付近、静岡県沼津市、熱海市、東京都の八丈島海岸、新島村海岸、千葉県山武郡の海岸に漂着し、はるばる福島県の山田浜海岸にまで流れ着いているのが確認されている。にもかかわらず藤村の詩、“椰子の実”の舞台となって世に知られるこのご本家ご本尊の伊良湖岬の海岸で発見されたことは、イベントが始まってからまだ、ただの一度もなかった。
 この十四年間に流した千五百八十九個にのぼるやしの実のうちの幾つかが、たとえ伊良湖岬一帯に流れ着いていたとしても、それが人間の目にふれて、拾われることはこれまで一度もなかったわけだ。
 そのやしの実がとうとう、地元の高校生二人の手に拾われ、こうして町役場の町長室にまで運ばれて来たわけで、これは町長や浅田のおやじさんでなくても感激するはずである。
 一時間もすると取材だ、写真撮影だと騒ぎ立てていた記者連中やがさつなカメラマンが去って、町長室は潮が引いたように元の静けさに戻った。やしの実を拾ったという森下哲次と川口安雄の二人も退席して、町長室には浅田のおやじさんと邦彦と鼻の頭をゆでダコのように赤くした町長との三人だけになった。「浅田君や、長いあいだ、ご苦労さんだったぞね。君も、邦彦も、こっちへ来て、内輪で一献、祝杯を上げようじゃないかね」
 町長は無類の酒好きだから、町長室に上等なブランデーをひそかに隠し持っている。
 毎年の予算獲得のため、町長室に詰めきりになったときや、取り込みで私邸への帰宅が遅くなったときなどに、グラスを取り出して元気づけに一杯やるわけである。農漁業の各分野で、町が方々から表彰された際の記念の盾や金ぴかのトロフィー、厳めしい額などがずらりと並ぶ壁際の飾りだなの下の引き戸を開けると、ずっと奥の方に町長お気に入りのブランデーの瓶がひっそり立っている。
 近藤町長は、邦彦を観光協会へもぐり込ませたあと、数年して亡くなった叔父の町議と同じ学校の同窓生で、某中学の校長時代から彼の家によく出入りしていた邦彦のことは小さいころから知っていたし、目をかけてくれているようでもあった。邦彦の方も町長が実は相当な女好きであることや、きな臭い政治的醜聞までも嗅ぎつけるルートをしっかり持っていたから、場合に依っては町長の方から遠まわしのご機嫌伺いをされることもある。年こそ若いが、この邦彦という男、なかなかのワルなのである。
 狭い町のことだから、そんなこんなで町長と言えどもそうそう革張りの高価な椅子にふんぞり返ってばかりはいられないわけだ。
 「まだ、ちっと陽は高いですがな、町長がそこまでおっしゃるんなら、まあまあ、このわたくしめが薦めたということにして、一献差し上げますぞね」
 浅田のおやじさんも酒好きな点では近藤町長にひけをとらないから、町長の代わりにうやうやしい態度でもってブランデーの瓶を取り出した。







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