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海洋文学賞部門佳作受賞作品
清原つる代(きよはら・つるよ)
本名=中村つる代。主婦。一九四七年生まれ。一九八三年「夜の凧揚げ」で九州芸術祭文学賞地区優秀作。九〇年「みんな眠れない」で二十一回九州芸術祭文学賞佳作。九三年「蝉ハイツ」で第十九回新沖縄文学賞を受賞。二〇〇一年「クジラの入り江」で第一回南日本文学大賞佳作。二〇〇一年「子捨て村」で第五回海洋文学大賞佳作受賞。
 
1
 アサリ採りの手を休めて、陸の方を見やった。伊良湖岬灯台から浜をめぐってつづいている海岸道路を、野球部の生徒たちがランニングしている。あかあかと燃えて、伊勢湾の向こうに落ちかかる夕日がそこらじゅうに真っ赤なじゅうたんをひろげていた。
 屈めた腰が痛んだ。背筋をスーッと伸ばすと、筋肉痛がやわらいだ。
 「万年、初戦負けのやつらよ、なんぼ鍛えても甲斐ないだらあ」
 少し離れた磯で、同じようにアサリ採りしていた安雄があざ笑うように言う。
 「隣町の野球部はもう三回、甲子園に行ってるだらあ、だのに、やつらは県大会出てもいっつも初戦負けしよるからなあ」
 「甲子園出場はまだまだ、遠い先の夢じゃなあ」
 哲次が言い、ふたりの高校生は声を放ってわらった。
 「どれ、今晩のおかずくらいは採れたんか」
 安雄が哲次のバケツの中身をのぞきに来る。
 「小粒じゃけど、けっこう採れてるぞ」
 安雄は哲次のバケツの半ばほど詰まっているアサリを手を突っ込んで掻きまわしてから、
 「先週じゃったか、母ちゃんらと西の浜で潜ったんよ。今時めずらしい大アサリが採れての、ええ値段で料理屋が買うてくれたんよ」
 安雄の家はアサリ漁師で、漁協の組合にも入っているから、いっしょにアサリ採りしていれば誰もうるさいことを言わない。
 その安雄は今日の収穫がまだ不満らしく、がっかりしたような顔で海岸道路を走ってゆく野球部員たちの姿に視線を移した。
 「おれはな、アサリ汁にアサリ飯つくって、じいのところに持ってって、食べさせてやろう思うとるん」
 「ああ、ホームに入っとるじいにか」
 「このごろな、ボケがひどくなりよってん、母ちゃんの名前と死んだばあちゃんの名前を混同しよるん」
 「それって、アルツハイマー病か」
 安雄も同じように背筋を伸ばして、腰の辺りをとんとん叩いている。
 「それもあるらしい、もうじき八十九歳になるだらあ、むかしのことと今のことがじいの頭の中でごちゃまぜになっとるらしいで」
 哲次はじいのゴマ塩あたまと、針金のようなぶっ太い眉毛を思い出している。
 「おまえんとこのじいはむかし、凄腕の漁師じゃったんだらあ。ときどき、うちの母ちゃんが若いころの話しやるんよ」
 「らしかなあ、けど、今では手足も満足に動かしやらん寝たきり老人なんよ」
 哲次はずっと小さい子供のころのうっすらした記憶をたぐり寄せるように目を細めた。
 三、四歳くらいの哲次がじいに手を引かれて浜辺を歩いている。何をしているのかというと、寄り物を探しているのだ。寄り物とは、はるかな大海原を越えてこの海岸線へ流れ着いた漂着物のことである。
 じいは表浜一帯で盛んだった地引き網漁がなくなってからは、マグロ船に乗り組んだりして漁をつづけていたが、哲次が生まれてまもない春、漁師仲間の酒の上でのとばっちりを受けて、右足に重傷を負ってしまった。
 沖へ出ることを断念しなければならなくなってからは終日、家に塞ぎ込んで鬱々(うつうつ)とばかりしていたから、走りまわれるようになった哲次を連れて、一日一回は浜へ下りるのが唯一のたのしみになっていたようだ。
 哲次の父親はくそたわけた男で、哲次が幼稚園にも上がらぬうちに、よそに女をつくって名古屋方面へ家出してしまった。それっきり消息不明になっていたから、母親は女手一つでアサリ漁の手伝いや、近所の農家でメロンづくりや電照菊栽培の手伝いをしたりして、哲次と妹のサヨとをここまで育てて来た。
 じいは蒸発した父親の代わりに漁師をつづけて哲次たちの母親を助けたかったのだけれど、右足を負傷していてはそうもならず、ひがみ根性ばかりが人一倍ふくれ上がっていったようだ。
 性格までがひねくれたようになって来て、哲次たちの母親を泣かしている場面も度々見て来た。飯の盛り方が自分にだけ少ないとか、好きな煙草代を母親がけちって渡そうとしないとか、子供が駄々をこねるような仕方で哲次たちの母親を困らせていた。
 それでもなぜか哲次はじいを嫌いにはならなかった。幼いうちに家を飛び出してしまった父親の顔かたちはとうに忘れ果てて、覚えてもいないのに、老人ホームに入ったきりになって四年、滅多に顔を見ることもなくなったじいのことが父親の面影に取って代わって、ときどき哲次の夢の中に現われたりするのだ。
 友達どうしのいざこざに巻き込まれて、勉強そっちのけになっているときなど、このごろ物忘れのひどくなった母親にはもちろん相談できずに、心の奥に鬱積させていたりすると、夢のなかでじいが元気でやっとるがや、テツ、と背中を思いきりどやしつける。
 翌日は胸のつかえがストンと落ちて、哲次は気分がすっきり晴れているのをかんじる。じいはある意味で、哲次の父親代わりなのだ。哲次は誰にもしゃべったことはないけれど、友達どうしや学校でくそたわけた父親らの話題がそれぞれの口から語られるたび、じいの顔を思い浮かべる。







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