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(六)
 夜更けまで吹きすさんでいた風が、嘘のように静まりかえっていた。雀のさえずりだけが、眠りと目ざめのはざ間にある勇作の耳をくすぐる。
 ようやく起き上がった勇作が、露をおびた窓ガラスを拭いて目をこらすと、外は一面の雪景色だった。この冬の初雪で、それも大雪に近い積りようだった。
 小舟が棧橋に繋がれたままであるのを思い出した勇作は、綿入れを羽織って浜に出た。雪は小降りになったとはいえ、絶え間なく肩から袖口へと降りかかってくる。
 浜に出て見ると、小舟はおそらく昨夕のうちに爺さまらが舟小屋に引き入れたとみえ、棧橋にはなかった。
 ほっとした勇作がふと前方に目をやると、あの〔小屋船〕が久太夫の棧橋に舫われていた。冬に入ってから、幸江の一家が漁に出る日が少なくなっていくのは、彼女が学校へ毎日のように来ることで分かっていた。
 幸江はやっぱり学校が好きなのだろう。顔には、浜で見るのとは別のかがやきがあふれていた。
 あの日から、勇作は幸江と顔を合わせても無意識のうちに下を向いてしまうのだ。そんな勇作を、幸江は可笑しそうに見やって、服の裾で手を振っては、くるりと背を向けるのだった。
 勇作は棧橋の下に目をやった。杭には短い藻がまばらに生え、皮剥や石鯛の稚魚が気まぐれに周りを泳いでいた。時おり思い出したように吹きつける風と雪の冷気もひととき忘れて、そうした小魚の遊戯に見とれていた勇作の鼻孔をただならない焦げ臭さがおそってきた。
 顔をあげた勇作の目が大きく見開かれた。
 〔小屋船〕の艫に真っ黒な煙が上がり、ハウスの端からは橙色の炎が蛇の舌のように、風に流され、勢いを増していく。
 咄嗟(とっさ)に勇作は綿入れを脱ぎ捨て、棧橋に伏せてあった木桶の雪を払いのけて掴むと、海に飛び下りた。〔小屋船〕まで行くには、棧橋から浜へ出て、また久太夫の棧橋へ上がればいいのだが、膝上ほどの水深がある砂底の海を、つんのめりながら走った方が早いと思った。
 いつとは知らず掴んだ木桶に海水を汲み、火の勢いがましてくる船のハウスにあびせかけては、また桶を振るって、おう、おうと言葉にならない叫びを勇作は張り上げつづけた。
 風にあおられたぼた雪が舞う中、膝も足裏も痺れ、勇作は海面に顔を突きそうになった。その耳で、浜を駆ける大人たちの潮嗄れた怒鳴り声と、棧橋の板がけたたましい音を立てるのを確かに聞いたと思った。
 「ほんまに、有り難いことでございます。あのまま燃え続けたら、機関場にまで火が回ってしもうて、わたしら一家は何もかも無くしてしまうとこでした」
 離れ家の畳間に敷いた布団に寝かせられた勇作の枕元で、幸江の父親がかしこまって勇作の両親に頭をたれていた。かたわらには幸江が、精根尽きはて、かすんだ目をしばたたいている勇作を、ほほ笑みをたたえて見やっている。その目と、頬のえくぼを美しいと思いながら、勇作はまた揺れるような眠りに誘いこまれていくのだった。
 
 「いま、何時頃かな・・・」
 離れ家の障子には薄い日がさしていたが、やがて木戸がかすかな音をたてて開いて、つうんと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
 「もう夕方よ、よう眠てたね。これ食べて早よう元気になって」
 セーターの赤さが目にしみた。
 幸江が布団の脇に置いた盆の小鍋には飽の切り身が煮られ、米粒がからんでいた。
舌が焦げるほど熱く煮立った鍋のものを匙(さじ)ですくっては、勇作は息を吹き吹き喉にかきこんだ。
 ふう、と肩をおろして、あらかた空になった鍋を幸江の膝前に置いた勇作に、また身震いが襲った。
 そっと勇作の背に手をあてがった幸江は、「まだ、こんなに冷えてるの・・・」
 言い終わらない間に、幸江は身にまとっていたものを脱ぎ捨て、布団の端からすべりこむと、ぴったりと勇作にしがみついてきた。
 「じっとしとって、うち、恥ずかしいさかい」
 幸江の全身から放たれる温もりに、勇作はおぼろげな眠りに引きこまれていくのを惜しいと思った。
 「あさってね、うちらこの村を出て行くんよ。あんな騒ぎ起こしてしもうたしね。・・・いつ、ここに来れるか分からへんけど、勇ちゃんと、もいちど逢いたいわ」
 夢うつつな勇作の耳許で、幸江のしのび泣く声が波のうねりのように反復しつづけた。
 このまま時間が止まっていてくれたらと、勇作は願った。
 うつろな目を開けると、いつの間にか元の姿にもどった幸江が、勇作の枕元でひざを屈めていた。
 「あんたが、大学へ行ったらね、ここに手紙出してくれん。もう、ふたりとも、大人になってるしね」
 ズボンのポケットから紙切れを取り出し、片ひざをつくと、勇作の手に握らせた。
 「絶対よ、約束してね」
 長いまつ毛で縁どられた黒みがかった目で勇作の顔を覗きこむと、幸江は冷めた鍋と盆を掴んで離れ家の戸口に姿を消した。
 
 岬の村の東はずれ、赤島の手前の小高い山裾で、勇作は身をこごめて前方に広がる海を見やっていた。冬は盛りに入っており、行き来する船はまばらだった。
 聞き覚えのあるディーゼルエンジンの響きを耳にすると、勇作はゆっくり立ち上がった。
 右下方から、〔小屋船〕が白い引き波を立てて走ってくる。
 舵場に立った男のほかに人の姿はなかったが、やがてあの真っ赤なセーターを着た幸江が〔小屋〕から出てきた。舵棒につかまって上方を見やった幸江の目が、山裾にたたずむ自分の姿をたしかにとらえたと思った。
 手を振ろうとしたが、金しばりにあったように身動きもできず、勇作はただ通り過ぎる船を見やっていた。
 船上の幸江も、勇作に目を向けたまま身じろぎもせず立ちつくしている。
 やがて船は、村の東端にある赤島を回りきり、白い引き波だけが寄せ返しては岩を洗うのを、勇作はいつまでも見つめていた。







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