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 十月に入って最初の日曜、勇作は盂蘭盆の二日前に使ったあと、納戸にしまったままの水中眼鏡を念入りに井戸水で洗うと、長袖の下着やタオルといっしょに桶に入れて、小舟を漕ぎ出した。
 若洲湾のさらに内海は波がゆったりとうねり、手をひたしてみると、外気とは違う、夏のなごりをとどめる温もりが伝わってきた。勇作は潜るなら今日しかないと思った。
 村の東端に位置する赤島を回ると、深さが五メートルほどの岩礁帯が広がっている。
 そのいくらか岸寄りに小舟を碇で停めると、勇作はメリヤスの下着に着がえ、海水にひたした水中眼鏡をかけた。腰に巻きつけた紐のつながった桶を浮かべ、螺子回しを握って海に飛びこんだ。
 大きく息を吸い、海底の岩のくぼみを這うようにさぐっていくと、思ったよりも早く手のひらほどの鮑が見つかった。岩の突っ先に左手をかけて体を安定させ、右手で螺子回しのへらを岩にへばりつく鮑の隙間に差し込んで、素早く剥がし採る一連の動作は、経験した者でなければ分からない快楽といっていいだろう。
 それが、しだいに自分の身から体温が失われていくのを忘れさせていた。
 (これでは足りない、もう一つだ)
 勇作は、幸江が茹がいていた鮑の大きさを思ってみた。盗んだものをあがなうには、同じくらいの鮑があと一つは要るだろう。
 息が絶えそうになるまで、岩と岩の窪みをさぐり、海面に顔を出しては息を吸い込むことを繰り返していったが、めざす大きさの鮑は見つからなかった。せいぜい小皿ほどのものや栄螺は目にしたものの、勇作は手をつけず、ひたすら最前のものと同じか、それよりも大きいものを探し求めて、夏の盛りとは違ったたたずまいを見せる海底を這い回りつづけた。
 岩底が縁の下のようにくいこまれている狭間で、手のひらよりはるかに大きな鮑を見つけた時には、勇作の息が切れかかっていた。その場をしっかりと見きわめ、息をつぐために、足裏で底を力いっぱい蹴りあげた。
 海面に顔を上げ、大きく息を吸ってふたたび海中に反転しようとした時、勇作の脹脛(ふくらはぎ)に激痛が走った。それは一度だけでなく、断続して襲いかかり、勇作の全身へと痙攣(けいれん)が広がっていった。
 飲みこんだ海水の鹹さ(からさ)に身を折り曲げ、どうにか意のままに動かせる両手で海面を叩いて勇作は桶にたどり着いたが、掴んだはずみで桶は横だおしになった。木桶の持つかすかな浮力にしがみついている間にも、痙攣は絶え間なく足から胸、肩へと伸びてきた。
 首すじが締めつけられる曚朧とした意識のなかで、海中に沈みかけた勇作の耳に、船のスクリュー音が伝わってきた。
 いったん止まったかに思えたその音が、激しく水を攪拌してうなったあと、腋に強い力がこめられ、引き上げられた勇作の体に乾いたぬくもりをもった布がかぶせられた。
 「勇ちゃん、しっかりして!」
 頬をたたいて叫ぶ幸江の声を勇作はかすかに聞いた。体にへばりついたメリヤスの下着がはぎ取られていったが、幸江の視線を気にするゆとりなどなかった。
 毛布の間にタオルを掴んだ手をねじ入れ、背中から胸をごしごしと乱暴なくらいにこすっている幸江の顔を間近に見て、勇作は引きつった声をとぎれとぎれにもらした。
 「あ、あの桶に、鮑が一つ入っとる。それで、こらえてくれ」
 その声が聞こえたのか、タオルにいっそう強い力が加わった。こするというよりは叩くような手の動きであった。
 「あほね。もう秋やというのに、海に潜るなんて、どうかしてるわ」
 波にただよう小舟を繋いで、船がしだいにエンジンの音をあげていくのを、勇作は舵場の下にしつらえた船室に横たわって、震えのとまらないまま身をちぢめて感じ取っていた。
 頭からすっぽりと毛布がかけられた勇作の体を、幸江は両の手のひらに渾身の力をこめてこすりつづけた。
 「堪忍してね。うちが、あんなにきつう言わんかったら、こんな事せんですんだのに」
 幸江がすすり泣く声をもらしながら、骨がきしむほど抱きしめるのを、勇作は夢がめぐる思いで感じとっていた。その体のどこかに触れてみたいと願ったが、両手の指はこわばったまま、毛布の端を掴んでいた。







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