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(五)
 三日ほど晴れの日がつづいた。
 〔弁当忘れても傘忘れるな〕と昔から言われてきたほど俄雨の多いこの地方だが、それらしい兆しもなかった。
 (鮑はね、こうやって干していくと、生とは違う味が出てくるんよ)
 あの日、幸江の言った言葉をふっと思い出したのは、囲炉裏端でラジオを聞いていた時だった。かたわらでは父親と、近隣の家に婿に入ったその弟が、大きな鮑の貝殻を小鍋のかわりにして、雑魚を煮ながら酒を飲んでいた。その貝殻は、幸江が身を外していた鮑よりはいくぶん小ぶりだったが、この村ではそうして鍋がわりに魚や野菜を煮るのに使われていた。
 「もう、だいぶ乾いた頃かな・・・」
 そんな思いが、勇作を自分では抑えきれない行動に駆り立てたのかもしれなかった。
 囲炉裏端をはなれ、上着をはおると、勇作はそっと浜に出てみた。
 上弦の月が西よりの空にかかってい、ゆるやかに渚に打ち返す波を照らしていた。月あかりを受けて、目だたないが、夜光虫が砂浜をなめる小波の崩れできらめいている。
 自分のつけた足あとが波にもまれて消えていく中を、勇作はそっと幸江たちが二階で寝起きしている舟小屋にしのび寄っていった。
 もう寝入ったらしく、二階の窓に灯りはなかった。
 舟小屋の前にかけられた幌をそっとめくると、筵に並べられた鮑が月あかりで見えた。胸が激しく高鳴り、頭に血が波うつのを覚えながら、勇作はその端の一つを掴み取って上着のポケットにねじ込んだ。
 ようやく動悸が鎮まったころ、自家の納屋の軒下で、勇作はポケットからそれを取り出し、ひと口かじってみた。まだ半乾きの鮑ははじめは硬めの餅のような歯ざわりで、噛みしめるほどに芳醇な甘味が口中に広がっていったが、
 (こうして干すとね・・・)
 幸江の声を耳の奥に聞くと、その味わいも、じわじわとえぐい、苦みをおびたものになっていくのだった。
 勇作は歯形で抉られたそれを、月あかりにすかして見ているうちに、自分自身がたとえようもなく情けなくなってきた。もうひと口かじってみようと思った手を不意に留め、大きく後ろにふりかぶると、渾身の力をこめて前方の竹藪に向かって投げ放った。
 
 次の日は、何日ぶりかで雨が降った。
 こうした天気の日は、幸江は学校へ来るのだが、勇作はその顔から目をそらしてばかりいた。それ以上に、彼女の方が勇作を見やりもしなかった。最後の授業が終わり、勇作は帰りの方角が同じ級友たちと一人ずつ別れ、いちばん東の集落につながる細い道にさしかかった。ここの集落には、学年の男子は勇作ひとりしかいなかった。家並みに入ると、いつも浜ぞいに歩いて行く。
 棧橋のたもとまで来て、そこから母屋へ向かおうとしたとき、背後で砂をかむ足音が速まってくるのを耳にした。振り向くと、蛇の目傘を手にした幸江だった。
 足を止めた勇作を追い越すと、前に立ちはだかるように幸江は踵を返した。まつ毛の長い目から憤りに満ちた光を放って、
 「ど・ろ・ぼ・う」
 喉の奥から、低い声を区切り区切り絞り出すと、幸江はつづけた。
 「父ちゃんが命がけで採ってるもんを盗むなんて、見そこなったわ」
 勇作はなに言うすべもなく、幸江の光った目を見つめるしかなかった。口許にかすかな笑いをうかべる自分が悲しいとさえ思った。ひとはなぜ、こうして窮地に追いつめられると、感情とは裏腹に笑いをもようしてしまうのだろうか・・・。
 ばさっと傘をたたんで、舟小屋へと駆けて行くと、昨夜、勇作がひそかにめくった幌の向こうに幸江の姿が消えた。勇作は傘を横に倒したまま、呆然と舟小屋に目を向けるばかりだった。雨のしずくが首すじを伝って背中をはい、身ぶるいがおそった。
 耳の奥からは、幸江の放った言葉がいつまでも鐘の音のように消えたかと思うと、力のこもった響きをともなってよみがえってくるのだった。勇作はうなだれ、ひたひたと寄せては返す波が洗う砂浜に立ちつくしていた。







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