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(三)
 次の日も、幸江は学校を休んでいた。
 勇作は中浜の町から帰ってきた組合の定期船から、今朝あずけた蛸の売上げ仕切り書を受け取ると家にとって返し、風呂を沸かす支度にかかった。
 この辺りの家四、五軒が共同で使っている井戸に勇作の家が電動ポンプが備えたのは、ほんの一年前である。それまでは井戸から釣瓶(つるべ)で水を汲み上げ、二十メートルもはなれた風呂場に何度も通っては五右衛門風呂の桶にぶちまけていたものだった。
 風呂炊き場は地面より一段低く掘り下げられ、奥に四角い釜がしつらえてある。釜の底には鉄の簀の子が敷かれていて、落ちた灰をかき出す狭い空間が手前にあった。そこに腰掛け、煙にむせながら何度も火吹き竹で空気を送った。ようやく火が燃え盛ってきたのを見さだめると、勇作は上着の胸ポケットから蛸の仕切書を取り出した。
 (八〇〇か、ま、悪うはないな・・・)
 今朝あずけた十ぱいの蛸の売上げである。夏の初めからやりだした蛸釣りは、これでもう六〇〇〇を超えただろうか。
 にんまりして仕切書をしまうと、勇作はズボンの尻ポケットから小さな単語帳を引き抜いた。栞のはさんであった頁を開き、スペルを口ずさみながら足元で均らした灰に火箸でなぞっていった。背後で誰かが井戸の水を汲み上げる音がしたが、それも気にならなくなっていった。
 (ええっと、f・u・r・n・i・t・u・r・e―家具か・・・、そんで、f・u・t・u・r・e―未来・・・)
 「ふあっ、こんなとこで勉強しとるん!」
 いきなり、頭のま後ろで、かん高い声が弾けた。びっくりして腰を浮かせながら振り向いた勇作の目に、幸江の大写しの顔が飛び込んできた。
 くっきりと窪んだえくぼ、そして長いまつ毛。普段は細めの切れ長の目がこの時ばかりは大きく見開かれていた。その時の幸江の顔を勇作は、このあと何年も事あるごとに思い浮かべたものだった・・・。
 あまりに突然の出来事に勇作の手から火箸が落ち、灰が足元に舞った。
 「すごいねぇ、風呂炊きしもって英語の勉強しとるなんて」
 幸江は、無遠慮に勇作の手にしている単語帳を覗き込んで、感嘆とも揶揄(やゆ)ともつかない声を上げた。息が耳たぶにかかるほどすぐ傍で・・・。勇作は声もなく幸江の間近な顔から視線をはずすと、風呂釜の炎をうなだれて見つめるばかりだった。それこそ、自慰の現場を母親に見られた男の子のように。
 そんな勇作の胸の内を感じとったのか、幸江はさっとその場を離れると、空の桶を手にして井戸端へと戻っていった。そして、上を向いて勇作の名字を声高に張り上げた。
 「中川少年はぁ、風呂炊きをしていましたが、それでも単語帳を放しませんでしたぁ」
 どこかで聞いたような文句を二度三度、かわいた笑い声を交えて口にしては、幸江が釣瓶で汲み上げている。そうして井戸水を満たした桶を両手にささげ持って、浜の方へと足をきざんでいった。
 久兵衛の母屋には電動ポンプを引いてあるが、舟小屋まではない。その水はあの小屋船(いつの間にか勇作は一人でそう呼ぶようになっていた)にも運んでいるのだろう。
 幸江の姿が消えたのを見届けると、薪を何本か乱雑に放り入れ、勇作はそそくさと風呂釜の前から立ち上がって、湯かげんをみるために引戸を開けた。
 台風が近づいているというニュースを、夕ベラジオで聞いた。そのためかどうか、この日の蛸釣りは上々の出来だった。
 (時化(しけ)の前にはな、魚っちゅうもんは大食いするんや。海が荒れるのを本能で気どって、食いだめするんやろな)
 そんな話を、延縄の漁師から聞いたことがあった。おそらく蛸も同じなのだろう。仕掛けを入れてしゃくり始めるとすぐに蛸の手ごたえがある、その繰り返しだった。
 そのうえ、場所を赤島の先の外海側との境目にしたのも良かったのかもしれない。この岬の村の東端に位置する赤島の沖は、底が岩まじりの砂地で、外海に向かってゆるやかにかけ下る深場になっている。そんな場所に、決まって大型の蛸が潜んでいるのだ。
 二つの桶に大ぶりな蛸がひしめいて、水管から吐き出す水で桶の中がざわめいているかに見えた。
 「こんだけで、七〇〇にはなりそうやな」
 勇作が、こみ上げてくる笑いを抑えきれない思いで、蛸を棧橋下に浮かべた箱の生け簀に移し替えているところへ、
 (うわぁ、ぎょうさんな蛸やねぇ)
 賑やかな声が、しゃがんだ頭にふりかかってきた。見上げると、幸江が子どもを背にして棧橋に立っている。
 「あんた、勉強だけやのうて、蛸釣りもよう出来るんやね」
 幸江はいつかのように棧橋のへりに腰掛けると、勇作の顔を覗きこむように言った。勇作はちょうど蛸を移し終わったところで、この無遠慮な少女から少し離れて身構える恰好になり、思わず辺りを見回した。
 「われ、幸江とあやしいんと違うか・・・」
 きのう、学校からの帰りに同級生の勝がいたずら笑いをこめた顔で言った言葉がよみがえってきたからだった。だが、そんなことは露しらない幸江は気安げな声を張り上げた。
 「わたしね、風呂炊きしながら勉強する人なんて初めて見たわ。まるで二宮金次郎やね」
 くすくすと、笑いを抑えきれないといった顔を勇作に向けた。小舟の梁に腰を下ろした勇作を見下ろす恰好になった。
 「そんなに、お勉強して、学者さんにでもなる気なん?」
 「そんなつもりはないけど、大学には行こうと思うとる。わしは次男やし」
 からかうような物の言い方に、勇作はむきになって口をとがらした。
 「ふうん、たいしたもんね、どこの大学?」
 「どこなんて決めてないけど、親父は防衛大学へ行け言うとる。学費がいらんどころか、給料までくれるらしい」
 「そんなら、軍人さんになるのね」
 「古くさいこと言うなあ。今は平和の世の中やで。昔とは違う」
 「わたし、戦争は大嫌いや。わたしの本当の父ちゃんはね、戦争のために死んだんやって」
 形のいい眉がひそめられるのを勇作はちらと見たが、やがて頭の中は別の考えがめぐり始めた。
 わずかの間、沈黙があった。
 舟端をたたく波の音が耳をくすぐったが、幸江のいきなり発した笑い声がそれをうち破った。
 「あはっ、いけない。年が分かってしもうたやない」







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