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 「スコールかよ。またイヤな時に降る」
 双胴の観戦艇に乗り、レースのスタートを待っていた小西は、最上階のデッキに駆け上がり、空を見上げた。
 あのときのことが頭をよぎる。
 最初はキャビンでユックリとコーラを飲んでいた。その円い窓から海面を見ていたら、波頭が奇妙な形に歪んでいく。激しい雨に穿たれて(うがたれて)、変形していたのだ。
 そういえば、キャビンにいたときは気がつかなかったが、風もかなり強い。
 「キンキンキンキン・・」
 スタートを待って回遊するヨットの帆柱が悲鳴を上げている。不快な音だ。状況は、あの時と変わらないように思えた。
 IORクラス(レース専用ヨット級)の最初のアメリカ艇「スター・アンド・ムーン」が斜めに大きく傾きながらも、勢いよく出ていった。次いで、ニュージーランド艇「キウイ・バード」が続いた。帆が左右に大きく振れ、激しく揺れながら。そして、日本期待の「四天王」が、摩天楼のように切り立った、鋭い波頭に挑みかかるようにスタートした。
 IORクラスのスタートが全て終わると、IMSクラス(一般レジャー用級)がスタートする。薄闇のなかで、一艇一艇がアッと言う間に白い点になり、彼方に消えていく。激しい風と波にもかかわらず、エントリーしたヨットは全て、無事にスタートを切った。
 この状況だけを見れば、シビアだなと思うが、クルーの様子を見ると安心する。皆一様に、厳しい状況を当然のように受容し、セイリングを楽しむ余裕が伺えるからだ。
 小西は、例によって、観戦艇がアラワイのヨット・ハーバーにつけると、徒歩でイリカイに向かった。あと二つレースを終えれば、すべては終わる。もうこのヨットクラブに来ることもあるまい。街路灯の明るさが、かえって一抹の寂しさを誘う。もう少し、この仕事をやりたかったような、いつまでやってもきりがないような、複雑な気分だった。
 何気なく振り返ると、明かりを消したハワイ・ヨットクラブの建物が闇にヒッソリと佇んでいた。人の気配はなかった。
 「無事スタート切ったようね。今夜は何か予感がして・・?」
 事務局に顔を出すと、アンがコーヒーを飲みながら笑った。
 「いや、何も・・、ただ・・」
 「ただ・・、何よ・・」
 「気象状況が、クイーン・ビーのときと似ているというのがね・・」
 「似ていると言ったって、スコールはすぐ止んだじゃない。風だってこのくらいなら、丁度いい具合よ。ノープロブレム」
 アンはパソコンの気象データを見ながら、ポンポンと小西の肩をたたいた。
 「そうだね。じゃ、俺は寝るから・・」
 「いい夢みてね。ツトムはこれ終わると失業なんでしょ。いい夢見て、よく遊んで、いい仕事探して、いい人生を送らなきゃ」
 「ありがとう。じゃあ」
 「グッド・ナイト」
 
 「ツトム!至急来て」
 部屋の電話がけたたましく鳴ったのは、午前二時過ぎだった。深く寝入っていた小西は朦朧とした中でアンの声を聞いた。
 やはり、予感は当たったのか?
 昨夜は念のためポロシャツと短パンのまま寝ていた。慌てて口を漱ぎ、1階へ下りる。
 「ニュージーランドのキウイ・バードが、あの時みたいに、モロカイ島のハラワ岬を過ぎたところで沈没しそうだって」
 「原因は・・?」
 「ラダー(舵)ポストが壊れ、船底に穴があいて浸水。航行不能。並走していた四天王がクルーを救助しているって」
 並走ということは、四天王がキウイに並びかけていたということなのか?
 「全員助かったのかい?」
 「分からない・・」
 「コースト・ガードは?」
 「現場に向かっている」
 「じゃあ、四天王は、タイムが大幅にロスする可能性があるということか」
 昨日の田中の髭面がチラリと浮かんだ。なぜか、佐橋の寂しげな顔も過る。それにしても何という運の無さか。よりによって直前のヨットが沈没の危機とは・・。
 「当然でしょう。仕方ないわよ・・」
 「無事だといいけど・・」
 「誰のこと・・?」
 「キウイのクルーに決まってるだろう」
 腹のなかとは違うコメントがスッと出た。本当は、佐橋ら「四天王」の新入りの動きが心配だった。“気が動転して、余計なことをしなければいいが”と思った。
 「主催者らしいコメントですこと・・」
 「当たり前だ」
 言いながら、少しだけ安堵していた。
 万が一死者や負傷者が出ても、外国のマスコミは、日本のような叩き方はしまい。
 「ホントは四天王のこと心配してたんじゃないの?勝ってほしいのにって・・。ツトムの会社の最後のレースだもの」
 「それはそうさ。でも、最後までバッドラックなこともある」
 アンと話している間にも、海上無線が入ってくる。当番の三人の若い女性の事務局員がテキパキと応対している。
 「今、監視艇から連絡が入ったわ。キウイは自力走行出来ないので、コースト・ガードが排水してマウイ島のラハイナヘ曳航するって。クルーは四天王の救助活動で全員無事だって。既に警備艇に移されたそうよ」
 アンの顔に喜色が戻った。やはり、心配していたのだ。親指を立ててウインクした。
 「それはよかった」
 「四天王はレースを継続しているって」
 「そっちは期待薄だな」
 「無事ならそれでいいじゃない」
 「まあね。ホッとしたら眠気が差してきたなあ。もう一度寝るか」
 「今度ばかりは、ツトムの予感も外れたようね・・。ラッキーな外れ方だけど」
 
 「キウイのクルーが感謝してましたよ」
 小西は、フェアウエル・パーティで相変わらず一人でいた佐橋に声を掛けた。
 これが終われば、運営当局は全て撤収に向けて動きだす。日本に帰れば、今度は、自分が会社からの撤収を余儀なくされる。
 「いやあ、どこまでやるべきだったか、未だに悩んでます。人を助けるか、レースに戻るか、判断が難しくて。結局みんなの足引っ張る結果になってしまいました・・」
 キウイ・バードの浸水が激しく、クルーは艇を捨て、海上に浮いていた。四天王は回遊しながら、その一人一人を丁寧に救助したという。監視艇やコースト・ガードもいたのだから、任せてレースに戻るべきでは、という見方もある中で、佐橋は救助にこだわり、最後の一人まで収容したのだとか。
 「ショーヘイは、中学の頃、勇気がなくて海で溺れる妹を助けられず、死なせていた。痛恨の思いだったと。そして、恋人の死があった。例のクイーン・ビーで亡くなった女性は彼の恋人だったんだ。兄ちゃんだけが幸せになるの狡いって、妹が呼んだんじゃないかって、言ってた。それ思い出したもんだからねえ、憑かれたように、ライバルを救助するショーヘイを見てたら、何も言えなくなって・・。お蔭で髭だけじゃなく頭も剃る羽目になったけど、止むを得ないんじゃないの。
 だけど、ニシさん。まさか、こんな事態になること予感してたんじゃないだろうね」
 先程、会うなり、田中が、青々と剃った頭を撫でながら、そういって会場に消えた。
 「いや、お蔭で大きな事故にならずに、当社も有終の美を飾ることが出来たんだから。有り難いことだと・・」
 懸念した佐橋が、結果的に救いの神に化けたのはツキがあったからだろう。これからの人生、いい事もありそうな予感がする。
 「マコさんや皆には申し訳ないけど、そういって頂ければ、少しは救われます」
 佐橋は、チチの白いグラスを挙げながら、はにかんだように笑った。
 会場に響く、各国のクルー達の歓声とともに、何時もは音量過剰と思われるようなハワイアン・バンドの演奏が、今は心地よく、酔った小西の耳に届いていた。







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