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 ベッドサイドの電話のベルが静寂を破る。事務局のアンからだった。
「詳しくは後で話すから、至急下りてきてくれる」
 アンが只ならない声で怒鳴るような口調になっていた。
 何が起きたのか?
 パジャマからいつ着替えたのかも覚えがないまま、ポロシャツに短パン、それにゴム草履を履き、一階の事務局へ飛び込んだ。
 「クイーン・ビーがモロカイのハラワ岬沖で転覆したそうよ。どうやら岩礁にぶつかったらしいわ。あそこは海面下の浅いところに岩がゴロゴロあるからねえ」
 「それで、クルーは・・?」
 「監視艇が海に投げ出されたクルーを救助しているらしい。全員助かったかどうかは分からない。コーストガード(沿岸警備隊)にも急行してもらっているそうよ」
 「分かった。何かやることある?」
 「今はない。それより、あんた、ボス(会長)やらヘッドクオーター(本社)に一報入れたほうがいいんじゃない・・」
 「ああ、それは今考えていたところだ」
 落ちつけ落ちつけ、と自分に言い聞かせながら、小西は受話器を取り上げた。手が小刻みに震えていたのを記憶している。
 後に、アンから、「あなたの予感を一笑に付してごめんなさい。私にも、少しだけ、ペシミスティックな考えが必要なのかもしれない」という手紙をもらったものだった。
 そのときは、一人死亡、二人が重傷を負う事故だったが、後始末が大変だった。マスコミ、とりわけ、週刊誌に叩かれたからだ。
 レースの話題作りだけのために、体力も知識も経験もない女性チームを参加させ、その未熟さの結果として事故が起こり、尊い命を失う結果となった。本来、商業主義とは最も遠いと言われるヨットレースが、企業のコマーシャリズムによって汚され、潰されてしまった、という論調だった。
 たしかに、商業主義とは程遠い。総合優勝してもカップ一つがチームに与えられるだけで、後々の証拠としてそのレプリカが残るのみ。他のスポーツと違い、賞金が出るわけでも、賞品が与えられるわけでもない。艇のオーナーもクルーも自らの名誉をかけて戦うのであって、それ以外の目的は何もない。
 スポンサーも同様だ。手っとり早く宣伝効果を狙うのなら、これに要する費用を直接宣伝に回すほうが得策だ。では、スポンサーの得られるメリットとは? 名誉とステイタス、この二つ。日本ではそうでもないが、欧米では高く評価される。結果として海外での企業のイメージは飛躍的に上昇する。
 こうしたマスコミに対し、当のクイーン・ビーのオーナーとスキッパー(艇長)連名による、強い調子の声明文が直ちに出された。「我々クルーの名誉のために敢えて申し上げる。今回、シャーウッド杯レースにエントリーしたのは、あくまで自分たちの意思であって、そこにスポンサー企業からの何らかの働きかけがあったという事実はない。
 我々の唯一の目的は、その力が国際的なレベルに達しているか、テクニックがレースで通用するか、という、純粋に自らを試すためのものであったことを改めて強調したい。その結果、不幸にも事故は起きたが、これはあくまで我々の過誤によるものであって、他に帰すべき事由は何一つない。
 さらに、一部週刊誌などで報じられているような事実は全く存在しない。これらの記事は全て誹謗中傷の域を出ず、我々を貶める(おとしめる)目的で書かれたとしか考えられない。
 我々はこうした心ない報道に対し、その名誉にかけ、断固抗議するとともに、必要な法的措置を講ずる権利を留保するものである」
 これと同時に、実際に、シャーウッド社会長と女性艇長の特別な関係を示唆した記事を書いた週刊誌一誌を名誉棄損で訴えた。
 これで、マスコミの動きは沈静化した。
 小西は嬉しかった。暫くしてクイーン・ビーのオーナーである女性誌出版社の社長に電話を入れ、お礼を言った。それに対し、「女性に囲まれて仕事している俺に対してハーレムの主というのは看過するにしても、あんたの会社の会長とユッコ(艇長)が六本木のイタリー料理店で飯食ったからって、あれはないよ。レースに出場するに当たって様子を聞いただけだろう。ユッコやクルーの連中を、まるで、コールガールみたいな書き方しやがって・・。おたくの会長のというより、うちの会社とユッコの名誉のために訴えたのよ」という答えだった。
 そして、事故で死んだ女性クルーの遺族への航空券、ホテル、さらに僧侶の手配、遺体の日本への搬送のための手続き、負傷者に対する入院先の手配など的確な処置を小西ら事務局がしてくれたことが、そうした行動を起こさせたべースにあることを匂わせた。
 ただ、この事件で、小西の社内における立場は危ういものになりつつあった。
 2億も3億も金を出しておきながら、自社のイメージを傷つけるような虞(おそれ)のあるものにいつまでも関わっていていいのか、という声が出始めたのである。
 いま考えれば、こうしたことの積み重ねが説得力の低下に結びつき、結果としてスポンサーを下りる下地にあったように思える。
 「いえ、折角ですが、これぐらいにしておきます。明日に残してはいけませんので。それに、これからミーティングもあることですし・・」
 じゃ、と言って佐橋は腰を上げた。キッパリとした強い意思が読み取れる。自制心が強い性質なのだろう。
 「グッドラック・・」
 缶ビールを高く掲げて、小西が微笑んだ。それ以上の無理強いは禁物。それが鉄則だ。
 「あなたも・・」
 ニコッと笑って、佐橋は右手を挙げ、空のグラスを左手で丁寧にバーテンに戻した。大きな白い歯が印象的だった。







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