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なぜ通信使は始まったの?
 
 
 
 
 豊臣秀吉は全国を統一すると、次に朝鮮や中国(明)に目をつけ、1592年から2度にわたって15万人の兵を朝鮮に送りこみました。この侵略戦争で、朝鮮の多くの民衆の命をうばい、数万人の人を朝鮮から強制的に連れて帰りました。この事実を今も悲しく語る“耳塚”が京都に残っています。
 この侵略戦争によって、それまで友好関係にあった日本と朝鮮との関係は絶えました。しかし、江戸幕府は朝鮮との国交を回復しようと、朝鮮に近い長崎県の対馬藩に仲立ちを頼んで国書を送り、1607年に第1回の朝鮮通信使が実現しました。
 この使節の正式な名前は「回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし)」といいます。「回答」は日本からの国書に対する返事で、「刷還」とは「送還」のことで、日本に強制連行された朝鮮人をふるさとへ送り帰すということです。第3回の使節までは、こうした戦後処理の目的で日本を訪れています。この3回の使節団によって故郷に帰った人は5,000人から7,000人といわれています。しかし、帰ることもできずに日本の各地に残る人も多くいました。その中には焼物の陶工もいて、有田焼・薩摩焼・萩焼などを開きました。有田焼の祖である李参平の記念碑が佐賀県有田町に建っています。
 そして通信使が回数を重ねるごとに、日本と朝鮮は江戸時代をとおして友好関係を深めていったのです。
 
 
李参平 発見之磁礦地記念碑(有田町)
 
 
耳塚(京都市) 残酷なことですが、日本の兵隊は戦功のしるしとして朝鮮の人々の鼻や耳をそぎ、塩づけにして日本へ持ち帰りました。そして秀吉の命令によってこの「耳塚」に埋められ、供養されたといわれます。







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