'03剣詩舞の研究(十一)
群舞 ◎石川健次郎
剣舞「蜀相」
詩舞「笛を吹く」
剣舞(群舞)
「蜀相」(しょくしょう)の研究
杜甫(とほ)作
〈詩文解釈〉
今月号は期せずして剣舞・詩舞とも盛唐の詩人、杜甫(七一二〜七七〇)の作品が選ばれた。
杜甫の詩は詠ずる内容が多様であり、特に人間性の強い正義感溢れるもの、自然を愛で(めで)人を愛すことで現実の社会を描写する作品を多く生んだ。
そうした杜甫の作品の中で注目されるのが三国志の世界である。その中でも杜甫は諸葛孔明(しょかつこうめい)を崇拝し、孔明に関する詩が、この「蜀相」や、既にコンクール指定吟題で取り上げた「八陣の図」、また「登楼」などに見ることが出来る。
因みに三国志の年表から、この作品に関係のあることがらを記録してみよう。
まず〈二〇七年〉孔明は劉備(りゅうび)から三度も礼を尽して軍師に迎えられた。〈二〇八年〉孔明の戦略で劉備は「赤壁の戦い」に勝利。〈二二一年〉劉備は蜀を建国、孔明は丞相となる。〈二二三年〉劉備は白帝城で病に倒れ、孔明は後事を託された。〈二二七年〉孔明は劉備の子劉禅(りゅうぜん)に「出師の表」(作戦計画)を奉り北征を始める。〈二三四年〉孔明は五丈原の陣中で病没、54歳だった。彼の廟(びょう)、武候祠(ぶこうし)は成都の郊外にある。
ところで杜甫がこの詩を詠んだのが上元元年(七六〇)49歳の春とされているから、杜甫にとっては約五五〇年前の時代を展望したことになる。
それでは、杜甫が孔明の廟をたずね、その様子を述べた前半と、後半の孔明が生前為し(なし)とげた功績についての詩文の内容について述べよう。『蜀の皇帝を支えた名宰相・諸葛孔明を祀った祠堂(やしろ)はどこにあろうかと作者の杜甫が尋ねた。そこは錦官城(成都)の郊外に柏(かしわ)の木がうっそうと繁っている所で、そのやしろには人影も見えず、階段に映る緑の草は春に彩られ(いろどられ)、枝葉のかげには朝鮮うぐいすがいい声で鳴いているだけだった。
ここにまつられた孔明は、かって劉備(りゅうび)が三度も礼を尽して訪れ、天下統一の計を乞うた。孔明はその誠意に感じ、劉備・劉禅二代にわたって、創業の功を建てて忠誠を尽したが、残念ながら孔明は出兵の目的を果たさないうちに、五丈原の陣営で病没してしまった。この事は、後世の英雄たちの痛恨事として永く涙を流させた。』というもの。
孔明を祀った祠堂「武侯祠」
三顧の礼で孔明の庵を訪れた劉備(右から二人目)左半分は進物を持って、馬で山道を進む〈三国志版画〉 |
〈構成振付のポイント〉
前項で述べたように、作者杜甫の理路整然とした詩文はよく理解できるものであるが、しかし前半の祠堂の描写は詩舞的な表現が適当であろう。もし前半に劇的な見せ場を作るのであれば、年表説明で述べたように成都迄の孔明の功を作舞する事だが、勿論詩文は置き替える必要がある。例えば一句二句は、孔明と劉備と供の役割りで三顧の礼のドラマを演じ、三句・四句は剣舞で、例えば赤壁の戦場を再現する。
後半の五句・六句目も意訳であるが、孔明の天文呪術的な所作と、棒術などで「八陣の図」の兵法を見せ、七句目は五丈原で病に倒れる孔明、八句目にかけては、二人にささげられた孔明が退場する。
この構成だと、作者杜甫の登場がないが、一句目と八句目を杜甫の役に振り分ける事も可能である。
〈衣装・持ち道具〉
三人の紋付きは黒で統一するよりも、白を孔明、黒を劉備、茶を從者又は作者などに使い分けることが効果的、鉢巻やたすきは振付に從って使う。刀を中心にした持ち道具以外には、棒や扇などを適宜に利用する。
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