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詩舞(群舞)
「獄中感有り」の研究
西郷南洲(さいごうなんしゅう) 作
〈詩文解釈〉
私達が持つ西郷南洲(一八二七〜一八七七)のイメージは、江戸城明け渡しや、明治新政府での活躍、そして西南の役の城山で敗れ、自刃したことなどを思い起こすが、この作品は彼の50年の生涯の中でも、35歳の頃を述べたものである。
西郷南洲は20歳を過ぎた頃から、藩主島津斉彬に認められ、藩政に深くかかわるようになった。その後斉彬に従って江戸に出たが、当時(安政4年)将軍継嗣問題が起こり、西郷は斉彬の意を受けて一橋慶喜の擁立に奔走した。しかし井伊直弼が大老になり“安政の大獄”でこれらにかかわった多くの者が弾圧された。この時西郷は、熱烈な勤皇僧、月照を伴って江戸を逃がれ帰国したが、藩でも幕府をおそれて受け入れなかったために、二人は錦江湾に身を投じた。しかしこのとき西郷だけは生き残ったので、藩はこのことを隠すために彼の身がらを奄美大島に移した。
その後、文久2年(一八六二)藩主島津久光の上洛に随行を許され、先発して下関で待つよう命じられたが、彼は京都の不穏な形勢を察知して命令を待たずに上京してしまった。これが藩主久光の怒りを買い、再び徳之島に流され(後に沖永良部島に移された)ここで罪人としての厳しい仕置を受けた。
しかし西郷南洲は、こうした境遇の中でも勤皇の志は失うことなく勉学を深め、「死生は天の賦与」の思想を会得した。
このような彼の人生観が、この詩には深くきざまれているが、直接的な詩文の意味は次のようである。『人の生涯には、或るときは身にあまる手厚い扱いを受けることもあるが、反対に中国の故事に云う焚書抗儒の如く酷い仕打ちを受けることもある。こうした浮き沈みは、なんともままならぬもので、一日の中でも暗い夜もあれば明るい昼もめぐってくるようなものであろう。しかし向日葵(ひまわり)の花は、たとえ太陽が照らない時でも、必ず太陽に向いて花を開くように、自分が運わるく、この島の牢で生涯を送ったとしても、この忠誠心は変ることはない。今回京都では多くの同志が大獄の難に殉じたが、自分だけは南の島に囚われの身となって生き長らえている。然し、もともと人間の生死は天が与えたものだから何んとも致し難く、もし自分が死んでも、我が魂はこの世にとどまって皇室をお守りしようと心に誓っている』と云うもの。
〈構成振付のポイント〉
詩文は抽象的な表現ではあるが、前項で述べたように、その背景には作者西郷南洲の生活記録が十分に描かれている。しかし群舞作品としてこのドラマを具体的に表現することは大変無理があるので、そこでこの詩の大意である尊皇の心を前面に押し出した三句目と八句目をポイントにして、作者の不屈の精神と行動力を群舞構成に仕立てた方がよい。更に注意すべきことは、詩文が一人称的な内容で展開しているため、振付けの主題が分散して混乱しないような配慮が必要であろう。
構成プランの一例としては、前奏から一句目にかけて、上手から格調のある三人の主従を登場させ、同時に下手から捕われ者と捕手を登場させ中央で交差しながら横一列になり扇による揃い振りを二句目に、三句目は体形を変えて、一対四で向日葵(ひまわり)の見立て振りで忠誠心を表わし、四句目は三句目の変形(バリエーション)で振付けを拡大する。五句目は一転して、同志が安政の大獄で倒れる様子を工夫し、六句目はそれを弔う西郷と分身の抽象振りでアクセントをつける。七句目は激しい怒りを爆発させて、扇の見立ての刀や空手風の格闘技の振りを見せ、八句目は一転して扇の揃い振りで、格調高く尊皇の気概を見せる。
西郷南洲が牢生活を送った沖永良部島の南洲神社
〈衣装・持ち道具〉
作品の内容は作者西郷さん一人である。従って五人とも同じ黒又は地味な色紋付で統一したい。扇は雲型模様など上品なもの又は無地がよい。
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