吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 18
文学博士 榊原静山
元(げん)を経て明(みん)の時代へ(その二)
−王陽明、学問と詩と−
つぎに盛唐の詩を讃えて、復古を叫んで雄渾な詩を作った李夢陽(りむよう)が出ている。
李夢陽(りむよう)(一四七二−一五二九)字は天賜、あるいは献吉、号は空同子といい、陜西省の慶陽の人。たいした名門の出ではないが、母が太陽を夢に見て彼を懐胎したから、夢に陽を見るという意味で、この名にしたといわれる。非常に頭が良く二十歳で最良の成績で進士になったが、激情の詩人といわれるほど強烈な詩を作る人で、そのため数回も投獄されている。
また何景明、徐禎郷(じょていきょう)、辺貢、康海、王九思、三廷相とともに七才子と呼ばれ、“雪中の曲”という詩がある。
雪中曲 李夢陽
(語釈)白登山・・・中国東北にあった山。朔雲・・・朔北辺地の雲。冒頭・・・匈奴の尊長単于のこと。漢天子・・・前漢の高祖のこと。胡児・・・蕃人の子供。李将軍・・・前漢の名将李  のこと。
(通釈)ここ白登山は寒くて北辺の地の雲は低くたれ、野馬や黄羊がここかしこに群をなしている。さて、この土地で匈奴の頭目冒頭は漢の天子高祖を囲んだことがあるが、二千年後の今日もなお、胡人の子供たちまでが、漢の李将軍のことを説いている。それほど李将軍は恐れられていた名将である−と詠んでいるのである。
明末には兄の袁宗道(えんそうどう)、弟の袁中道(えんちゅうどう)とともに“三袁”といわれた袁宏道(えんこうどう)が活躍している。
袁宏道(えんこうどう)(一五六八−一六一〇)字は無学、号は中郎といい、湖北省公安の人。
官にもつき、吏部稽勲司部という役目にもなったが、当時の形式的擬古主義を排して、自分の純粋感情を表現する清新な詩風を主張し、三袁で協力し、いわゆる公安派と呼ばれる人である。
このほかに李東陽(りとうよう)、林鴻(りんこう)、孫  (そんふん)、劉?(りゅうそう)、鐘惺(しょうせい)、方孝孺(ほうこうじゅ)、その弟の孝友、丘濬(きゅうしん)、陳子竜(ちんしりゅう)、などがおり、儒学者の王陽明も陽明学だけでなく、詩の面でも活躍をしている。
王陽明(おうようめい)(一四七二−一五二九)名は守仁、字は伯安といった。淅江の余姚の人。十五歳の頃から朝廷に治安のことについて献議したといわれるほど、若い時から聰明で、政治家としてもまた武人としても、学者としても、明代第一の人材といわれる。しかし彼の名を不滅にしたのは、、何といっても、知行合一、心即理説、致良知説の陽明学を開いたことである。陽明というのは、彼が三十歳の頃胸を患って陽明洞にこもって、養生をしたので陽明先生と呼ぶようになったからであり、『山中の賊をやぶるのは易く、心中の賊をやぶるのは難し』といったのは名言である。
泛海 王陽明
(語釈)泛海・・・海に浮かぶというタイトルで、これは王陽明が明の軍を指揮して賊と戦った時、不幸にして敗れ、追われて海上に敵をさけた上に、舟山列島付近で暴風にあい、精神的開眼をした不動の心を詠じたもの。倹夷・・・艱難と平安。飛錫・・・錫は僧侶の用いる錫杖(しゃくじょう)のことで、飛錫は僧侶などが巡遊すること。
(通釈)いま自分は海上にいるが、海が危険だとか危険でないなどということは、大悟した心には何のこだわりもない(人生の逆境も意にかけないと暗にいっている)。それはちょうど風に漂う雲が流れていくのと同じようなものである。この波の上の夜は静かで、三万里の果てまで月はくまなく照らし、その中に浮かぶ我々は、あたかも錫杖をついて天風を御して下るような心持ちである−。
また唐詩選を編んだといわれる李攀竜(りはんりゅう)の存在も忘れることはできない(真偽それぞれの論があるが)。
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