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吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 17
文学博士 榊原静山
元(げん)を経て明(みん)の時代へ(その一)
−若くして刑死した高啓−
元代
 宋に代わって、西紀一二七九年から一三六七年まで約一世紀の間、蒙古族である元が中国を支配する。この元は、東はアジアからヨーロッパにおよぶ膨大な地域にまたがった未曾有の大帝国を、遊牧の民だの未開民族だのといわれる蒙古人が漢民族の上に立っての変則的な王朝である。
 文学としては戯曲が盛んであって、それに従って演劇がめざましい発達をとげ、詩壇のほうは虞集(ぐしゅう)、揚載(ようさい)、范椁(はんかく)、掲斯(けつけいし)などの四大家のほかに趙孟(ちょうもうふ)、揚維(よういてい)、黄庚、劉秉文、蒙古人の出では薩都刺(さつとら)などが出ているくらいなものである。
 また金の国第一といわれる元好問も忘れてならない詩人である。
 
明代
 およそ百年の間つづいた蒙古人の王朝を倒して西紀一三六八年に明の時代にしたのは、明の大祖朱元璋である。彼は南京を首都として国の基礎を固め、政治的には王位継承のトラブル、また北虜南倭といわれ、北から元の残党の進入や、あるいは倭冠(わこう)の海賊などのなやみはあったが、文化的には王陽明の陽明学の興隆をはじめ、天文学、数学、医学、農学、兵学、自然科学の面、または琵琶記、三国志演義、水滸伝、西遊記、金瓶梅、などの小説、文学も盛んであった。
 詩人としては、高啓が最も秀で、『水を渡り復水を渡り、花を看、また花を見る』の“胡隠君を尋ぬ”は彼の作品である。
 
高啓(こうけい)(一三三六−一三七四)字は李迪(りてき)、号は青邱(せいきゅう)で長州(江蘇省)の生れで、明初に朝廷に召されて“元史”を編修し、小杜甫といわれるほどであったが、“元史”の一部が大祖の怒りにふれて、三十九歳で死刑にされてしまったが、大全集十八巻と鳧藻(ふそう)集五巻がある。
高 啓
 
『問梅閣』
 
(語釈)問梅閣・・・梅で名高い楼閣の名。
幽禽・・・深山の鳥または静かな鳥。
(通釈)春はどこから来て、どこにあるかと梅に問うてみても、梅は何とも答えてくれない。月がおちて、静かな谷間で小鳥が相語っているのが聞えるが、これが春なのかしら−。
 この高啓の少し前、元から明にかけて活躍した詩人に劉基(りゅうき)がいる。
 
劉基(りゅうき)(一三一一−一三七六)字は泊温、号は覆(ふくへい)で浙江の東部青田県の人で、初め元の文宗のときに進士になり、元の役人として勤務、また元軍の将、石抹宣孫の参謀格として働き、のちに明の大祖から明国成立九年前に招かれて、謀臣となり、以後、明の黒幕的存在として生涯を送った人である。
(語釈)憶昔・・・昔、劉基が揚州に遊んだ時のことを追憶して詠んだ詩。月華・・・月の光。絃管・・・絃楽器と管楽器。中秋・・・八月十五夜。寒蛩・・・淋しいこおろぎ。細紗・・・うす絹をめぐらした窓。
(通釈)思い出されるのは昔、揚州に遊んで明月を賞したあの時のことだ。その時は揚州城内のどこの家も、音楽の音で満ち満ちていた。それに比べて今夜ここで見る中秋の明月は淋しく、薄絹の窓辺で淋しく鳴いているこおろぎを照らしているのを見るばかり、まことに今昔の感にたえない−。
 さらに、この二人についで、西紀一四〇〇年頃、袁凱(えんがい)が出ている。
劉 基
 
『憶昔』
 
袁凱(えんがい)(詳(つまびらか)でなく一三六七年に在世)字は景文、号は海叟、華亭(江蘇省)の人で洪武年間に御史という役についたが、わずかの期間で郷里へ帰り、“白燕”という詩を作って名声を挙げたところから、袁白燕ともいわれ、海叟集四巻を残している。
 
(語釈)京師得家書・・・作者が首都南京にいた時、郷里の妻からの手紙に接し、なつかしんで作った詩。
(通釈)長江の流れは三千里もあるが、妻からの手紙はたった十五行しかない。それでもどの行もほかのことは書いてなく、ただただ一日も早く私のところへ帰って来て下さいと書いてある−と、なかなか深い味を込めた詩である。







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