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詩舞「芳野(よしの)に遊(あそ)ぶ」の研究
頼 杏坪(らいきょうへい)作
 
〈詩文解釈〉
 作者の頼杏坪(一七五六〜一八三四)は江戸時代後期の儒者で、安芸(広島)の竹原に生れ、よく知られている頼山陽は甥(おい)にあたる。天明八年に安芸藩の藩儒となって儒学の興隆に専念し、甥山陽の教育にも力を注いだが、また一方詩作にもすぐれていた。
 さて、この詩が作られたのは文政十一年(一八二八)春、作者杏坪が五十八歳の折、甥山陽の案内で吉野に遊び、後醍醐天皇陵に詣でたとき、その荒涼とした有様と吉野の桜を見て、約五百年古(いにしえ)の太平記の世界に想いをいたしてその感懐を詠んだものである。
 詩文の意味は『吉野は南朝の古都。花見の頃に訪れる人達は、酒に酔って延元陵(後醍醐天皇の御陵)の辺りの草はらを踏み荒らしているが、自分(杏坪)と同じように、後醍醐帝のことを身にしみて考え、悲憤慷慨(悲しみ憤る(いきどおる))する者が他にいるだろうか。
 しかし心に残るのは、散りぎわの花が後醍醐天皇の御心を汲んでか、その御陵の上から吹く風に乗って北の京都の方向へと飛ぶのを見るときである』と云うもの。
 
〈構成振付のポイント〉
 さて具体的な舞踊構成を考えてみると、詩文とは内容を置き替えて詩心を先行させたいと思う。
 先ず前段(起承句)では酔人(酔っ払い)が御陵を踏み荒す描写はやめて、作者が花見の季節に芳野を訪れ、花の下の御陵(当時は現代の様な柵もなく荒れ果てていた)を探して参拝する。持参のひさごの酒を供え、しばし瞑想にくれると、近くの如意輪堂での故事が思い出され、楠正行が再び合戦で帰ることはないと「返らじと」の和歌を矢で書きつけたことや、桜の樹を削って後醍醐帝に情報を送った児島高徳の働きなど、所謂太平記の世界を寸描する。
 さて後段(転・結句)は詩文に沿って、後醍醐天皇崩御の際の御心であった「自分の骨は南山に埋めるとも魂は常に北(京都)の天を望まん」を心として、先ず笏(しゃく)を持った帝(みかど)の像を見せ、北の方角を指してから抽象表現で桜の風景描写に変り、花吹雪が大きく渦巻いた後に、花の飛び散る流れを下手奥に向ける。最後は作者に戻って花の行方を見送って退場する。
 
〈衣装・持ち道具〉
 花見を兼ねた墓参だから、春らしく、またあまり堅苦しくない薄い色が好ましい。
 扇は笠や杖、ひさご、笏などの見立ての振りと、情景として桜花、霞などの表現に使うから、薄いべージュ色の無地などがよい。桜の件りで二枚扇にしてもよいが、あまり騒ぎすぎない方がよい。
 
吉野山の桜
 
後醍醐天皇陵







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