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詩舞「平泉懐古(ひらいずみかいこ)」の研究
大槻磐渓(おおつきばんけい)作
 
(前奏)
三世(さんせい)の豪華(ごうか)帝京(ていきょう)に擬(ぎ)す
朱楼(しゅうろう)碧殿(へきでん)雲(くも)に接して(せっして)長(なが)し
只今(ただいま)唯(ただ)東山(とうざん)の月(つき)のみ有って(あって)
来(きた)り照(てら)す当年(とうねん)の金色堂(こんじきどう)
(後奏)
 
〈詩文解釈〉
 作者の大槻磐渓(一八〇一〜一八七八)は幕末明治の儒者で仙台藩士。藩侯に選ばれて儒員となり、藩の養賢堂の学頭になった。この様に磐渓は東北仙台藩の役職にあったことから、平泉の金色堂には何回も足を運んだであろうし、また藤原三代の史跡には深い関心を抱いていたことがこの作品からも窮える。
 さて詩文の意味は『藤原清衡(きよひら)・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)は三代にわたって繁栄をきわめ奥羽地方を支配したが、拠点の平泉は天皇の都(京都)に似せて、朱色の楼台が天高くそびえ、あおみどりの殿堂は長く並び建っていた。しかし現在はそれらの面影はなく、月だけが昔のままに毎夜東山(塔山)の上から、当時の唯一の遺物である金色堂を照らしている』というものである。
 
〈構成振付のポイント〉
 まず参考のために平泉の藤原氏について述べて置こう。後三年(ごさんねん)の役(えき)が一〇八七年に終わり、陸奥押領使となった藤原清衡は平泉に住居を構え(平泉館、通称柳の御所)中尊寺の造営などに着手し、金色堂も一一二四年に落成した。二代目の基衡が京都の法勝寺に倣(なら)って建てた毛越寺は、その華麗さは中尊寺に勝ったという。三代目の秀衡は新たに私邸の加羅御所(からのごしょ)を建て、また宇治の平等院を模した無量光院(むりょうこういん)を建立するなどで、京都を凌ぐ華やかな黄金文化を形成した。
 さてこの間に西では源平の合戦も終わり、頼朝との不和から義経は平泉の秀衡の許に落ちてきた。秀衡は間もなく没し、四代目泰衡は頼朝の大軍によって攻めほろぼされてしまい、一一八九年に平泉藤原氏はあっけなく滅亡した。因みにこの四代の各当主の遺体は金色堂の須弥壇下に安置されたが、毛越寺や中尊寺はその後に炎上している。
 
 
平泉俯瞰図
 
 
無量光院(模型)
 
 
金色堂内陣
 
 
 さて作者の大槻磐渓は当時より約七〇〇年の昔をしのんでこの詩を詠んだわけだが、詩の前半は詩文の通りに藤原氏三代が都の平安文化を模した華やかな生活ぶりを述べているから、舞踊表現に置き替えると前奏から扇を握(にぎ)り持ちか又は二骨開きで舞楽風なイメージで登場し、起句一ぱいを踊る。承句は振り返ると無量光院の屋根が壮大に眺められ、その様子を振りで描くと同時に雲が棚引いて美しい扇の流れを見せる。
 後半は平泉に唯一残った金色堂を、作者が感慨を深く眺める様子を例えば扇をかざして見ると云った手法で演じ、次に金色堂に安置された仏像の形態や須弥壇に彫られた鳳風などをヒントに堂の内陣の様子をポーズで決めて終る。後奏は作者に戻って退場してもよい。
 
〈衣装・持ち道具〉
 衣装は演者に相応しい色で、淡い茶系、ブルー・グレーなどを選び、袴との色や柄を決める。扇は振付によるが金地、銀地の無地か、又は平安朝カラーの地色に切り箔などが上品な雰囲気を出す。







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