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吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 15
文学博士 榊原静山
虞美人へのエレジーを詠じた曽鞏(そうきょう)
−宗代(二)−
曽鞏(そうきょう)(一〇一九−一〇八三)字は子固、号は南豊で南豊(江西省)の人で、有名な『鴻門の王斗紛として雪の如し、十万の降兵夜血を流す』の″虞美人草″の詩は彼の作(一説には魏代または許彦国の作ともいわれる)で、元豊類藁五十巻を残している。
 
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(語釈)虞美人草・・・ひなげしのことであるが虞美人の墓にこの草が生え、このひなげしは虞美人という曲を演奏すると茎や葉がみんな動くといわれ、ひなげしは虞美人の化身とされている。鴻門の玉斗・・・鴻門は陜西省潼県の東にある鴻門というところで、項羽と沛公が会見したとき、項羽の智謀の部下である范増(はんぞう)は沛公を殺そうとしたが、沛公の部下の張良のはからいでとり逃がしてしまい、その口惜しさに沛公から贈られた玉斗(玉で作ったひしゃく)をこなみじんに打ち砕いてしまった。玉斗・・・ひしゃくのこと。粉如雪・・・雪のようにこなごなにする。覇業・・・武力で天下統一する。陰陵・・・今の安徽省定遠県西北にあるところの地名。屑屑・・・こせこせする。紅粧・・・紅をつけて化粧する美人、ここでは虞美人のこと。三軍・・・大軍のこと。数としては、一軍は一万二千五百人。旌旗・・・旌は鳥の羽で飾った旗、旗は普通の旗。玉帳・・・玉をちりばめたカーテン。香魂・・・香り高い虞美人の魂。青血・・・青黒くなった血、碧血ともいう。寒枝・・・さむざむとした枝。旧曲・・・垓下の歌のこと。斂眉・・・眉をひそめて悲しむ。聴楚歌・・・垓下で項羽の軍を囲んでいた劉邦の兵たちに大声で楚の歌を唄わせ、楚の兵隊たちは郷愁にかられ、また項羽は今まで頼りにしていた故郷の人たちも漢の軍に降伏してしまったのかと思って落胆した、といわれる故事をいっているのである。逝水・・・流れる水。丘土・・・土を盛り上げた墓。慷慨・・・いきどおりなげく。
 
項羽と虞美人
 
(通釈)鴻門の会見で范増から贈られた玉のひしゃくを雪のようにこなごなにしてしまった項羽は、秦を夜襲して十万人の降伏した兵隊をみな殺しにしてしまった。そして咸陽宮を焼き払った。その火は三カ月燃えつづけた。このように残虐をほしいままにした項羽は天下の人望を失いせっかくの覇業も秦宮殿の火の消えるとともに滅んでしまった。剛強な力だけの者、項羽は必ず亡び、仁義を守った沛公(劉邦)が王位につくのは理の当然である。項羽が陰陵で道にふみ迷い、敵の包囲におちたのも天のくだしたわざわいでなく、自業自得というべきである。英雄である項羽は、万人を敵として戦う方法を学ぶと豪語したほどであるが、何も最後にこせこせと虞美人との別れを悲しみ、女々しく嘆くことはあるまい。項羽の大軍も今は散り散りばらばらになって旗も倒れて破れ、美しいとばりの中の虞美人も心配と悲しみのために、その場ですっかり老けこみ、虞美人のかぐわしい魂は自らの剣の光とともに自害して果て、彼女の青黒い血潮は飛び散り、野原の草になってしまった。虞美人のかんばしい魂は、淋しげに寒々とした枝に宿り、人が垓下の歌″虞や虞や汝を如何せん″という旧曲を歌うと、如何にも虞美人が眉をひそめるようにゆれる。悲しみ恨んで何もいわずにたたずんでいる様子は、あたかも四面楚歌を聞いているように見える。滔々と流れる河は今も昔も変わらない、興った漢も亡んだ楚も今は土を盛り上げた墓になってしまった。当時の出来事も今はあとかたもなく消え去り、ただ虞美人草が悲しみ、憤り嘆いているかのごとくに、樽の前で舞うように動いているが、一体お前は誰のために舞っているのか・・・と草を通して虞美人へのエレジーを詠じているのである。
 四面楚歌という熟語は、この垓下戦の楚歌のことで、四方八方ふさがりでみな敵という意から、現代でもしばしば用いられている。この時代にはまた、蘇東坡(そとうば)の名で知られている蘇軾が出ている。







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