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吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 14
文学博士 榊原静山
多作詩人を輩出した宋代(一)
−陸遊、蘇軾、王安石ら−
 宋代の詩は理論的な叙事詩が多く、この時代は文学の中心が詩よりも、文章のほうが重んじられ、沢山の作品が残されている。詩においても数では唐代に負けぬほど、沢山の詩を作っている。特に一人の詩人で多作の人が多く、唐では白居易が二千八百首、杜甫が二千二百首、李白が約千首といわれているのに対して、宋代では陸遊が九千二百首、蘇軾が二千四百首、王安石も千四百首といわれ、唐代詩人よりも遙かに多作の詩人が多いのも一つの特色である。詩風としては唐に起こった近体詩をうけついで、唐詩の美しい花を鑑賞し学ぶことを重んじたので、それぞれ信奉している詩家によっていろいろの派別ができて地域的な独自の傾向がはっきりしている。
 たとえば初宋に白居易の系統を引いた徐鉉(じょげん)、王禹(おううしょう)、また賈島の流れをくんだ野(きや)、林逋(りんぽ)などの人々につづいて、李商隠の詩風の流れをくんでもっぱら鮮麗な形式を重んじた、いわゆる西昆体派といわれる揚億(ようおう)、劉(りゅういん)、銭惟(せんいえん)等が出て、一時は非常にこの派が栄えたが、これに反対の立場をとっている蘇舜欽(そしゅんきん)、梅堯臣(ばいぎょうしん)、欧陽修(おうようしゅう)などが有名である。
 
欧陽修(おうようしゅう)(一〇〇七−一〇七三)字(あざな)は永叔、号は酔翁といった。吉州盧陵(ろりょう)(江西省)の人で仁宗、英宗、神宗の三代の君主に仕え、王安石の政治改革に反対して引退したが、文章にも秀でていて、唐の韓愈や柳宗元の主唱した古文復興の運動をつづけ、その門下の蘇洵(そじゅん)、蘇軾(そしょく)、蘇轍(そてつ)、あるいは王安石、曾鞏(そきょう)、とともに唐宋八家と称せられている。詩風は前述のように、華美に流れる詩風を破って、日常茶飯事の中から詩を見つけ、現実の実生活に即した、いわゆる宋的な新詩風の道を開いた人で、著書も沢山あるが、詩では文忠公全集百五十三巻がある。″明妃曲″が有名である。
 
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(語釈)明妃・・・前漢の元帝の宮中に仕えた女官、王昭君のこと。単于・・・匈奴のこと。画工殺・・・王昭君の顔をみにくく描いた画工は、後に殺されている。漢計・・・漢国のはかりごと。
(通釈)漢の王宮に美しい女性が仕えていた。天子の元帝は初め、その女性が美しいということは知らなかった。ところがこの女性王昭君が漢王宮の家来に連られて御前に来て、彼女が匈奴の国へ嫁して行く女性と聞いてよくよくみると、素晴らしい美人で天下に比類ないほどであった。一度彼女を匈奴へやってしまえば二度と再びとり戻すことはできないのだ。彼女の顔をことさらに醜く描いた毛延寿を殺してしまっても、こうなっては何の益もないことだ。自分の聞いたり見たりできる宮中のことですら、このように知らぬことがあったのに、まして万里も離れた匈奴の国を征服することができようか。匈奴の国へ女を送って匈奴からの攻撃を防ごうとする漢の計画自体が全く拙いものである。今となっては彼女の美しさを誇ることはできない。いよいよ王昭君が匈奴へ出発する時の涙は枝に咲いている花にふりかかるほどはげしいものであった。王昭君の行く先は荒れ狂ったような風が、夕方になると咲き、当てもなく長い道を進み、誰の家に泊ったらよいのか、紅顔の姿が人より美しければそれだけ不幸なことが多いのか、やわらかい春風をうらまずに、自分自身の運命を恨むより仕方がないものだ。
 
欧陽修
 
王安石
 
王安石(おうあんせき)(一〇二一−一〇八六)字は介甫といい、号は半山、臨川(江西省)の人。非常に記憶力にひいでて、一度目を通したものは一生忘れないといわれ、新宗に仕えて高い地位を得て国事をつかさどり、新しい法律を発布して世論を沸かし、これを強力に断行した政治改革者としても、史上有名である。彼の詩は好んで名詩の句を集めたり、古人の句に手を加えて作り替えるいき方、つまり宋詩の特色をそのままあらわした詩人で、臨川先生文集百巻がある。







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