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吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 13
唐の国勢、詩壇ともに精気を欠く
晩唐−(2)
崔魯(さいろ) 生没年もその伝記も不明であるが、僖(き)宗のときに進士に合格して棣州(ていしゅう)の司馬になったといわれている。詩の格調は高く、無桟集四巻、十六首が今に残っている。
 
韋荘(いそう) (八三六−九一〇)字は端己(たんき)、長安(陜西省)の人で、若い時分は流浪し、中年になって唐朝に仕え、校書郎になり節度使王建の書記になっていたが、唐朝滅亡後、王建が帝位につくとその宰相になり、成都で没している。詩にすぐれ浪漫的な傑作が沢山ある。また一六六六文字の″秦婦吟″という長詩をはじめ、清鮮な詩風の浣花集十巻、三百十九首が残っている。なかでも″金陵図″がすばらしい。
 
金陵(きんりょう)の図(ず) 韋荘
 
 
(語釈)金陵・・・南朝の都であった建康。霏霏・・・雨や雪の降りしきる形容。六朝・・・呉、晋、宋、斉、梁、陳の六朝のこと。台城・・・金陵の東北五里にある街。
(通釈)南朝の都のあったこの金陵は、霏霏とした草のしげる江南の地にある。呉、晋、宋、斉、梁、陳の六朝の夢も遠く昔のことで、今は空しく鳥が蹄いて飛んでいく金陵東北五里の台城の街の柳は、昔のように煙をこめて何も考えないかのごとく十里の堤に立っている−。
 
金陵図
 
絶句の詩体完成で詩の黄金時代を築いた唐代
−唐代詩壇のまとめ「唐詩選」−
 初盛中晩の唐詩壇の中心の人々について記述したが、これらの初唐二十九人、盛唐四十二人、中唐三十六人、晩唐十七人と無名もの四人の作が選ばれ、詩体としては五言の古詩十四首、七言の古詩三十二首、五言律詩が六十七首、五言律が四十首、五言絶句が七十四首、七言絶句が百六十五首、七言律詩が七十三首、通算四百六十五首で、唐詩選(編者は李樊竜)が構成されている。
 以上のように神話時代から周、春秋、戦国、漢、魏、晋、南北朝と伝承された古体詩に新しい修辞格律を整理して、いわゆる近代詩と称する詩の基礎を唐代に完成したわけであるが、中でも絶句の詩体が完備されていて唐詩選の大半は絶句になっている。
 そのうち五言絶句は初唐で四傑といわれる王勃、揚烱、盧照鄰、駱賓王、それに魏徴、中でも王勃が最も得意とし、盛唐では李白と王維の幽玄な作品につづいて、孟浩然、崔国輔、王昌齢、崔等が入神の作を残し、中唐では韋応物、韓愈、李益、柳宗元、特に韋、柳の詩が高雅で有名であるが、晩唐ではあまり盛んでなく、七言絶句のほうが多く作られており、七言絶句では盛唐の李白と王昌齢、これに続いて王維、岑参、賈至、高適、韓愈等が優婉な詩を残し、中唐では、劉長郷、銭起、張籍、王建、李渉、王涯、晩唐では李商隠、杜牧、許渾、温庭、韋荘などが出て絶句というものの味を後世に残している。
 しかも楽府(がふ)と同じように絶句は管絃にかけて歌うことができるので、上は宮中から酒亭に至るまで天下いたるところで、楽器の伴奏つきで歌われ、飛躍的に進歩し、唐の文芸の黄金時代に詩というものが、文学的芸術の最高位に位し、空前絶後、詩万能の世にしたのも、この絶句にあずかる力があるわけであって、また逆に管絃に合わせて歌うがゆえに、作詩に当って厳格な押韻、平仄、起承転結の規則が要求され、その法則がこの時代に完成されたのである。
 しかし、このように貴族政治の華やかな泰平の夢、栄華を極めた唐朝三百年も、士民一揆ののろしを挙げた王仙芝、これにつづいて朱全忠に天下を奪われて、建国以来二百九十年で亡び、朱全忠は後梁という国を建てたが、永くは続かず、後唐、後晋、後漢、後周の五つの王朝がかわるがわる興った。しかし結局は漢人の趙匡胤(ちょうきょうじん)が出て(西紀九〇七年)宋という国を建て、つづいて大宋が北漢を亡ぼして中国を統一して宋朝が成立したが、国力は弱く、常に隣国の機嫌を伺いながら、自国の保存をはかりつつ、途中で首都を南臨安(杭州)に移してまでも、一二七八年まで続くのであるが、学問芸術は幅広く興隆している。詩については後で述べるが、講談の“五代史年話”京本通俗小説から文学上では、唐宋八家のうち六人までが宋代の人であり、美術方面も北宋画、南宋画の言葉があるように、これらの書画の源流にもなっているのである。







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