「新剣詩舞のすすめ」(3)
前回では、これから剣詩舞に入門しようとしている人、又は入門したての初心者の人達に、何とかして剣詩舞に馴染んで欲しいと云う希望を述べたが、今回はもう少しレベルを上げて新しい時代に相応しい剣詩舞の内容について考えてみよう。
新しい剣詩舞のための吟詠
“舞踊”を分析すれば、その半分は音楽である。従って優れた剣詩舞のためには当然優れた吟詠が必要なのであって、特に新しい剣詩舞を目指す上ではなお更のことだと思う。
前回の「新剣詩舞の伴奏音楽」では羽目をはずして漢詩以外の音楽迄話を進めたが、今回は一応漢詩を中心にして剣詩舞のための吟詠音楽の広がりを考えてみたいと思う。
現在の漢詩吟詠に対する不平不満は前回に述べた通りだが、その解決策として幾つかの問題を提起してみよう。
まず漢詩家や多くの吟詠家は、現在の漢詩の読み方については、一般に云う読みくだしで、「訓読」とも云われる。
例えば、孟浩然の「春暁(しゅんぎょう)」の場合、上段の漢文は、下段のように読まれている。
春眠不覚暁 春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚えず(おぼえず)
処処聞啼鳥 処処(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞く(きく)
夜来風雨聲 夜来(やらい)風雨(ふうう)の声(こえ)
花落知多少 花落つる(はなおつる)こと知んぬ(しんぬ)多少(たしょう)ぞ
さて、この訓読は、私達の感覚からすると原(もと)の詩の味わいを十分に残しながら簡潔な訳文としての内容をもち、更に詩としての「韻(いん)」も感じられる。
しかしこの読み下し文が、現代には理解出来ないと云う人達がいることにも注意を向けて欲しいのである。
次に現代語訳と云うわけではないが、この漢文を日本の詩人(土岐善麿)によって日本語の詩に翻訳された例を次に述べよう。
はるあけぼのの うすねむり
まくらにかよう 鳥の声
風まじりなる 夜べの雨
花散りけんか 庭も狭に(せに)
七・五調で統一されたこの詩は「春暁」の日本語訳と云うよりも、春暁のテーマで作られた日本語の詩歌と云うにふさわしく、詩文の内容も日本人には理解しやすいものを感じる。
さて、ここまで話を進めると筆者は漢詩の読み方について何が云いたいのかをはっきりさせなければいけないのだが、そのことは一まず預けておいて、剣詩舞としての伴奏吟詠は“聞いて分かる詩文”でありたいと主張したい。
これにはもう一つ云い分があって、現代の舞踊音楽の中には、歌詞は分からないが(例えば外国語などの場合も含めて)リズムやメロディーで曲の雰囲気がわかると云った例もある。しかし吟詠の場合は先ず詩の節付や伴奏の音楽的な主張が弱いこともあって、詩文による作品の理解度が最も重要な要素となるからである。
更に具体例を挙げるならば、剣詩舞の場合は吟詠鑑賞の場合のように詩文のテキストを見ながらと云うことは出来ないから、耳から聞いた直接の詩文が作品を理解させる鍵になることを念頭に置いて欲しい。
さて以上の情況を考えると、初心の剣詩舞愛好家に対しては、わかりやすい詩文の伴奏吟詠か、又はその吟詠の節付や伴奏(特に前奏.後奏)が詩文を十分印象づける音楽的な雰囲気を持ったものであることが好ましいと云うことになる。
以上の様な理由によって剣詩舞に携わる者が、吟詠に対して色いろな希望やそれが実現することを期待する気持が理解されると思う。
ちょっと話題がそれるが、漢詩を中国語で音楽的に吟じたら(この場合はうたったらと云うべきかもしれないが)一体どんな効果が生まれるのであろう。たまたま少壮吟士の河田  泉さんが催したリサイタルで、該当する数曲を聞いた。私は全く中国語はわからないから、その詩文に関しては外国の歌曲と同じで、結局は作曲者のイメージが彼女によって伝えられた。中でも有能な作曲者の手腕と河田さんの発声の豊かさで、剣詩舞音楽としてもその可能性を十分に包含した作品に出会えたのはうれしかった。
新剣詩舞創作への情熱
さて新しい剣詩舞の普及を計るために、その伴奏音楽である吟詠の従来の路線に、いくつかの問題を提起してみたが、更にこの問題を拡大するためには“新剣詩舞の普及を目指した新たな創作活動”に情熱を傾けるべきだと云うことを提案をしたい。
即ち現代に剣詩舞を普及させる方法として最も必要なことは、現代の若い人達がそれに新鮮な魅力を持ってくれることであり、それには、そうしたテーマにふさわしい作品を創作すると云った具体案が必要である。
まず「創作剣詩舞」の内容は、現代の若い人達の日常を広く意識したものとして、
(1)ドラマがあって、人間生が描けるもので、友情とか、特に女性の愛情を描いたものなどにスポットを当てたい。
(2)「雪月花」的なストレートな情景描写とは切り口を変えて、そうした美感覚から発想を転換したイメージとを合体した“現代雪月花”を描いてみる。(既存の作品としては「荒城月夜の曲を聞く」などはその類であろう。文学としては坂口安吾の「桜の森の満開の下」、演歌では「夜桜お七」などにヒントがある)
(3)剣技を中心にした群舞では、歌舞伎の「殺陣(たて)」や「京劇」の様にスピード感があって、刀法には仕かける方も、受ける方にも理にかなったものが欲しい。作品としては古くからある「戦いの漢詩」の現代語訳でもよいが、現代感覚からずれている部分は削除したい。また戦いを史実として描く以外に「戦い」そのものに焦点をしぼり、例えば戦いの主題(モチーフ)を「激戦」、むごさに注目した「殺戮(さつりく)」、柳生剣法を群舞化した「策略(さくりゃく)」、「怨念(おんねん)」、「冷戦」、「戦友(友情)」などとしたシンプルな表現も考えてみよう。
剣舞家の奮起
ところで、こうした新しい剣詩舞の詩文は誰が書くの・・・、作曲は誰がするの・・・、振付はどうするの・・・と腕をこまねいていても仕様がない。結局は剣詩舞家が率先して、流儀が中心にするのも良し、いろいろな専門スタッフを集めてプロジェクトを組むのも良し、いずれにしても新しい二十一世紀の新剣詩舞にふさわしい作品が数多く誕生することを期待したいものである。なお新剣詩舞に相応しい振付については、別な機会に述べることにする。
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