新剣詩舞のすすめ
石川 健次郎
「新剣詩舞のすすめ」(1)
はじめに
コンピューターの誤作動を心配しながら、新しい年、二〇〇〇年を迎えた。私達は何かにつけ丸い数字の区切りを大切にする習慣があって、祝い事だと五周年、十周年、十五周年と云った様な節目に記念の会を催す事が多い。従って二〇〇〇年の節目ともなれば、心理的にも何か新しいものへの憧れとか挑戦をしないと時代にとり残されてしまう様な気分になってくる。
もし“そんな事は面倒くさいよ”と云われる人は、多分老化が始まっているか、勇気のない人なのでしょう。折角やる気のキッカケになる二〇〇〇年の節目を迎えたのだから、せめて「新しい剣詩舞」の行方を考えてみたいと思う。
舞踊界の傾向
特に舞踊界と限定する迄もなく、芸能の世界では新しいものに対する願望が始終うず巻いているので、冒頭に述べたごとく二〇〇〇年の節目が事さらにこの印象を強めている様な気がする。何はさて置き、日本舞踊系の舞踊界で最近非常に目につくのが『新舞踊』の進出で、これが剣詩舞に与える影響などについても考えてみたい。
新舞踊の方向
かつて大正末期から昭和初期にかけて坪内逍遙が提唱した「新舞踊運動」が起こり、その当時慢性化した歌舞伎舞踊とは制作理念の異なる高尚で斬新な舞踊が誕生した。これは欧米の舞踊文化に影響された一種のレジスタンスとも考えられる芸術運動だったが、現代の「新舞踊」と同じようなネーミングのために混同されがちだが似而非なものとも云えるのである。さてその非なる部分は芸術的な主張が主になるので、ここではその詳細を省略するが、現代の「新舞踊」の発想が、現行の舞踊界に一石を投じたレジスタンスと考えれば、自ずと(おのずと)新舞踊に求められたものが見えてくるだろう。
その方向で観察すると、まず“けいこ事”の発想の変化が考えられる。かつて一般家庭が求めた踊りのけいこは“若い子女の立ち居振舞”のお手本がその目的であった。しかし現代のけいこ事はもっとストレートで、大衆的で、実用的な成果が要求されるものとなり、最初から自分もその芸能に参加することが精神的な文化の恩恵を受けることとして、例えば「カラオケ」と同じかそれ以上に、現代人が罹りやすい(かかりやすい)照れ性から解放される妙薬としても一石二鳥の役割りを果してきた。
こうした効果をバックに、これから踊りを習いたいと云う人たちにとって「新舞踊」は更に如何なる手をさしのべたのであろう。
まず総論としては特定の好事家(こうずか)対象ではなく、多くの人達に興味を持ってもらえる大衆路線を貫き、作品の内容は従来のものに比べ非常に短くした上で「美しさ」「夢」「感動のドラマ」「現代風俗」などを盛り込み、演技者としては舞台に立った満足感、そして観客にも共感を与えることに注意が払われている。
次に各論としては「振り付け」は習いやすさを配慮して、従来の形にこだわらず新しい振りを開発する。使用する「音楽」は邦楽一般、歌謡曲、民謡、詩吟その他の中から歌詞がよく理解できるものを選び、メロディーは作品にふさわしい雰囲気の曲を選ぶ。「舞台装置」はなるべく省略するか簡素化して、例えば照明効果を活用し、同時に「小道具」「扇」などを効果的に利用する。「衣装」は作品のイメージを高めるもので、センスのよい色彩や図柄を選ぶようにする。またこうしたときに問題となる「時代考証」については、勿論おろそかにしないのが原則だが、そのために雁字搦め(がんじがらめ)にならない様な応用を働かす知恵が必要である。
さて実際に上演する段階でも、その場所が完備した劇場とは限らず、大衆の集まりやすい場所を確保することが大切である。またそのための企画としては、他の芸能と有機的に結びついた催しを積極的に行うことも歓迎されるであろう。また別な企画として、新舞踊の“演技”や“作品”のコンクールでレベルアップを心掛け、スターや後継者の育成も積極的に行う。更にこうした催しを「マスコミ」とのタイアップで周知を拡大することも現代の知恵であろう。
ところで新舞踊には新興の芸能団体としてのなやみもある。例えば組織の問題として流儀や名取(会員)の簡素化に伴う功罪が指摘されるが、特に悪い例としては一部指導者のレベル低下。また大衆化路線を踏み外した低俗化には舞踊家としてのモラルを厳しく求められている。
さて現代舞踊界の新勢力と云われる「新舞踊」の姿を紹介したが、ここで我が剣詩舞界を振り返って見ると、いくつかの共通した部分を発見する。
「他山の石」の例え(たとえ)ではないが、二十一世紀の剣詩舞に求められるものを探求する足がかりとして、新舞踊を参考にしながら、次回は新剣詩舞のイメージを提案したいと思う。
「新剣詩舞のすすめ」(2)
現代の稽古ごと
二十一世紀に求められる剣詩舞のイメージを探求するについてはいろいろな角度で分析できると思うが、最初からあまり高望み(たかのぞみ)しないで、新しい剣詩舞を“習いごと”(稽古ごと)のレベルで考えることから始めてみよう。
現代の大衆文化と云われるもので、庶民が好んで習うものは、よく新聞雑誌の広告で目にする「カルチャーセンター」や「文化センター」の教習科目であろう。一つ一つ並べ立てたら大変な数になるが、その中には邦楽系の教室として「端唄小唄」「長唄」「箏曲」「謡曲」に加えて、我が「吟詠」も参加していたが今や次第に影が薄い。また舞踊系の教室では「日本舞踊」「上方舞」「民謡舞踊」から「かっぽれ教室」など迄あり、「新舞踊」なども大変人気度が高い。
それに反して、剣舞、詩舞のこの種の教室があまり歓迎されないのは如何なる理由によるものなのであろうか。
まず考えられる一つに、現代人の好みから云って楽しい芸能のイメージが薄い点で、別な言い方をすれば指導者の堅苦しさが入門者を疎外させているのではないだろうか。そのためには従来の教授法とは異なったユニークな方法を考え出して欲しい。特に若い人達にとっては“カッコ良さ”も大切であろう。
次に剣詩舞が楽しい芸能であるためには、剣詩舞の魅力を充分に引出して、稽古をする人達だけではなく、見る人達にとっても、それが身近かなものとして、例えば色々な集会のアトラクションとしても、内容が理解され、楽しんでもらえる「愛される芸能」として、もっともっと大衆の前に姿を見せて欲しい。
魅力ある新剣詩舞の内容
まず、剣詩舞は基本的には古典芸能であっても、二十一世紀に向かって新しい魅力を追求するための具体的方法論を考えなければならない。
検討の順序は、舞踊表現の魅力探求の意味で「演技」「振付」から進めるとして、前月号でも述べた「新舞踊」の場合と同様に、現代人の感覚として習いやすく(覚えやすい(おぼえやすい))無理のない動作の振付を心がけるべきであろう。従って矛盾の多い従釆の形にだけこだわらず、新しい表現技法としての振付をどんどん考え出すことである。従来の振付が兎角ワンパターンで、例えば数のことになると何んでも指を折り数えると言った習慣からは早く脱却し、その詩文の意味にふさわしい振付を色々と考えて置いて、最も流れに沿ったものを使うようにしたい。
演技の魅力には、演者の個性を活かした、一寸した(ちょっとした)仕草(身振り)が効果を上げることもあり、また具体的な振付にしても、あまりにも当て振りで馬鹿馬鹿しいものになったり、反対に微笑ましくなったりもする。また具体的な振りが付かない場合は抽象的な振りでも良かろうとする例もあるが、これも初級の振付で魅力のあるものは大変難しいので、簡単な抽象動作のくり返しで効果を上げることができる。
次にこれから剣詩舞を習いたいと云う人達に対して、新剣詩舞が魅力的な印象を与えるための方法論として提案したいのは、新剣詩舞の伴奏音楽である。
新剣詩舞の伴奏音楽
剣詩舞の初心者から聞かされる苦情の一つに、伴奏の魅力の無さを指摘される。つまりどの吟題も音楽的な変化が少なく、どれもが同じように聞こえて、曲自体から内容のイメージが掴めない。また別な意見として、詩文の文句が難しすぎて意味がわからない、それに日常的でないことばは聞きとりにくい、などである。
確かに吟詠になじみの少ない剣詩舞初心者にはもっともな意見であろうが、もっと困るのはこれから剣詩舞を始めたいと云う人達に対して、音楽の魅力の無さが原因となる拒否反応である。
前月号で述べた新舞踊の場合の伴奏音楽では「歌謡曲」や「演歌」など、絶えずテレビやラジオで聞かされる曲が多いから、大衆の親近感が比較にならないのは致し方がないが、何んとかして新剣詩舞になじんでもらえる伴奏音楽を探し出したいと云うのが本音である。
さて前置きが長くなったが、ここで初心者向きの新剣詩舞用伴奏音楽の提案を試みたい。先ずその一つは剣舞用として日本の「和太鼓」を編曲し、剣舞の基本形の振り(型付)に合致させる方法である。和太鼓の曲は、リズムもテンポも変化に豊んだものが多く、既成の曲ではポピュラーな「助六太鼓」やバラエティーな組曲になっている「御諏訪太鼓」など音源は豊富である。次に、ややレベルは高くなるが同類の提案として邦楽の「お囃子」の利用である。本来は能の伴奏楽器である、笛、小鼓、大皮、太鼓などによるものだが、その曲のレパートリーは大変多く、現在CDなどで聞くことが出来る。
ところで太鼓系のリズム中心では、剣舞表現の例えば残心などで不都合なこともあるから、更に伴奏音楽として提案したいのが、能管、篠笛、尺八などの管楽器の協力である。これらの楽器では「一声」「田舎笛」「むらいき」など、聞けばおなじみの施律が数々あり伴奏音楽としての魅力を増幅するだろう。
次は詩舞の基本形の振りを演じるための初心者向きの伴奏音楽を提案しよう。
よく「日本舞踊」と「詩舞」はどう違うのかと言った質問を受けることがある。反対にそう言う質問をした女生に対して『どこが違うと思いますか』と聞いてみると、多くの答えは、「男も女も袴をつけた着物姿が大変すっきりして、特に歌舞伎的な衣装をつけた日本舞踊とは異なる魅力を感じる」である。この他にも「小道具は扇だけですっきりしている」とか「舞台装置も簡略化されている」と言った意見もあるが、「日本舞踊の様な伴奏音楽の派手さがない」との指摘もある。要約すると、詩舞は見た目の上では評価されていても、伴奏音楽としての吟詠の評価はあまり高いとは思われない。
そこで詩舞の伴奏音楽として、従来の吟詠を否定するわけではないが、初心者用音楽として、例えばなじみやすいメロディーを持った唱歌の「荒城の月」「青葉の笛」「今様黒田節」等々を使って詩舞の手ほどきを試みたら如何がなものであろう。勿論こうした試みの曲は唱歌に限らず現代曲でも、またやさしい創作歌曲でも歓迎し、詩舞をおどる人達に日本的な施律に積極的になじむ方法を見出したい。
さて「剣詩舞」とは吟詠等を伴奏にして舞う舞踊と言った現代剣詩舞の姿勢が変ることはないと思うが、今日、急務とされる剣詩舞の大衆化を計(はか)るうえで、その伴奏音楽の大衆化に知恵をしぼって行きたい。
次号では更に新しい剣詩舞の展望を試みてみよう。
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