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【現代詩舞への道】
 一般に詩舞とは漢詩や和歌、それに新体詩などの吟詠に振りを付けた舞踊で、その振付は剣舞の影響の下で刀を扇に持ち変えたものと考えられてきた。しかし今日このような概念的なことが詩舞の性格を支配するというのは大変無意味なことで、それよりまず考えたいのは“吟詠”という音楽作品の内容を、如何に舞踊で表現するかの方法を思考することである。
 舞踊の表現技法は、具体的な仕草を主体にすることや、抽象的な動作でより深みのある表現をすることができるから、前述の明治後期を出発点とした近代詩舞の発想には拘束されず、現代的な斬進な感覚で大衆の心をとらえる必要がある。それでは次にその方法を提起しよう。
(1)古今の漢詩、和歌、新体詩の再調査で、現代感覚をもった詩舞作品の開拓を目ざす。また、進んで詩舞に適した「創作詩歌」を作ることの努力をしたい。
(2)作品内容は剣舞的趣向に偏(かたよ)ることなく、テーマを広げ、主題は人物(老若男女を含む)・風景・思想など多彩にする。
(3)これまでに培われて(つちかわれて)きた詩舞の魅力である“品格”や“叙情性”は現代詩舞の品位向上のためにも伝承を心がけたい。
(4)舞踊化に当って、振付は詩の“表面”ばかりでなく“心”の表現を心がける。
(5)詩文の字句にとらわれて適当な振リがつけられない時は、その言葉の意昧を持った他の理解しやすい言葉に読み替えてみる。
(6)舞台で上演する場合、詩を“聞かせ”そして“舞う”といった、吟舞一体の演出を心がけることも必要である。そのためにも吟詠家との連帯意識をたかめたい。
(7)「振付け」「衣装」「髪型」「持ち道具」「背景」など総合的な成果が発揮できるように、旧来の固定観念にとらわれず、広く美意識を養う。
 
【剣詩舞の美学】
 以上、現代の剣詩舞を隆盛に導くための様々な要点を列挙したが、さて現代的といいながらも提案の中に指摘した“剣詩舞の持つ舞踊的な品格や魅力の伝承”については、いわば剣詩舞のもつ時代を越えた舞踊美学と考えてもよいだろう。従って現時点におけるこの独特の“剣詩舞の美学”を次に再確認して置こう。
 
<静の中の動>
 舞踊とは肉体を動かすことによって物ごとを表現する芸術であることはいうまでもないが、しかし、「能(のう)」や「上方舞」の技法には『心を十分に動かして、身は七分に動かせ』(世阿彌・花鏡)とか、『動かんようにして舞え』(井上流芸談)といった舞踊の原則に逆行するような教えがある。
 武道でも『静中動』とか『動中静』という言葉がよく使われるが、剣士が静止の体形をとったときでも、その体からは激しい気魄が発散し、わずかな攻撃の動作でも強烈な迫力を感じさせる。こうした不動の構えができるようになるには、目付け(めつけ)や姿勢などが重要な要素となることはいうまでもないが、それ以外にも、例えば神道無念流の奥儀では『剣は手に従い、手は心に従う。心は法に従い、法は神に従う。錬磨これ久しゅうすれば手を忘れ、手は心を忘れ、心は法を忘れ、法は神を忘れて、神運万霊、心に任せて変化必然、すなわち体無きを得て至れりというべし』と述べているように、この極意でもかなりの錬磨と精神性を重視していることがわかる。さてこうした精神性は、剣舞も詩舞も基本的には同じような理念で出発しただけに、その多くは動より静を理想とし、その静にはあらゆる動の可能性を含めたものという発想があった。これは前述の世阿彌や井上流の芸談などとも同じ考え方であって、まさに“芸道”と呼ぶにふさわしい民族的な美意識が反映していると考えられるのである。
 
<美しい構え>
 剣詩舞が品位、格調、位(くらい)どりを大変やかましくいう一因は、前項で述べたような芸道としての精神性が大切にされているからである。実際にこれらを前提とした従来の剣詩舞には静止の“構え”が数多く取入れられていて、演技者の構えを見れば大体彼らの技量は推定されるとまでいわれてきた。
 それでは一体、品格のある美しい構えとはどの様な体形をいうのだろうか、日本古来の芸能である能や狂言などを見ればわかるように、演技者は大地(舞台)にしっかりと定着し、安定感を持つことが原則とされてきた。そのためには“腰を入れる”と呼ぶ基本体形をとり、姿勢を沈めることで重心をかなり下げる訓練をしてきた。したがって歩く場合でも、通常の歩行のように足を上げ、股を開くようなことはせず、“すり足”(能足)の歩き方が考案された。これは西洋舞踊のように跳躍を主体として、大地をはなれ空間に肢体を展開させる舞踊とは非常に対称的で、洋舞をエネルギーの発散型と呼ぶなら、前者は内包型と呼ぶことができよう。また、前項で述べた“静中動”にも通じるものがあるから、腰を人れることによって、精神的にも均衡のとれた心構えをみせることができる。さて実際に剣詩舞の基本的な衣装である袴つきの和服姿は裾が広がった三角形で、美学的にも安定感がある美しいポーズを見せてくれるが、腰を入れ重心を下げることによって一層構えに精神的な充実が見られるようになる。
 構えの体形には「立ち構え」「中腰の構え」(片膝立ての構え)「座り構え」の三通りあるが、それぞれが次の動作に移るための基本体形として安定感がなければならない。特に剣舞の場合、静止の姿勢である構えは容易だが、動きながらの構えの持続、または動より静にもどった時の構えの姿勢は、とかく崩れやすいから、常に丹田(たんでん)(へその下)に力を入れ重心の安定を計り、無理のない自然体を心がける必要がある。
 
<目の表現>
 “目は心の窓”という諺がある。日常生活の動作でも目の動きを見ていると、その人の行動の意思を読みとることができ、それこそ“目はロほどにものをいい”ということになる。舞踊動作にしても、この目の動きが体の動きに連動して表現力を増大させるわけだが、この傾向は舞踊表現の中でも写実なもの程効果が高い。さて歌舞伎舞踊の伝書『佐渡島日記』に「振りに目の外れるを死振りといい、所作の気に乗りて振りと目と一致するを活たる(いきたる)振りとは申すなり、それ故振りは目にて遣うと心得べき事第一なり」と記されているが、しかしこうした伝書でいう目の表情、目遣い(剣舞では目付けと呼ぶことが多い〉とは必ずしも日常の動作と同じものではなく、芸術表現としての工夫が凝されていることが多い。例えば飛んでいる鳥を見る場合、鶴のように大きく旋回するものや、ひばりのように急上昇、急降下するもの、また時鳥(ほととぎす)のように変則的にうねって飛ぶものなどを見る目遣いは、舞踊的動作(静止(ポーズ)の場合もある)と連動して考案されるのが普通である。そして更に加えて、それを見る(舞っている)人物の性別や年齢、身分、それに心境や環境までも勘案されている。このような表現技法の創造は、特に古典芸能の世界では大切に伝承されていて、例えば歌舞伎の強調した目遣いの一例として、手や足の動きに対して、首(顔)をわざと反対がわから振り向けるような動作を「見得(みえ)」と呼んでいるが、剣詩舞でもしばしば使われている技法である。
 
<手足の表現>
 手が剣詩舞の舞踊表現で如何なる働き(はたらき)をしているのかを考えると、まず基本になるのが「構え」の体形である。特に具体的な意味はないにしても、権威格調の象徴として重要なポーズになる。手の表現として佛像の様にまたはインド舞踊の如く指の形や動きに独特の意味を持たせたものもあるが、日本の舞踊では手のひらで“ながめ”“かざし”“指し(さし)”“数え(かぞえ)”などの動作をすることが多い。これらの動作は能より歌舞伎舞踊の方が写実的であり、詩舞もこの影響を受けている。ただし歌舞伎舞踊は女の表現、特に色里を中心にした遊女等の媚こびた表情として、手のひらを小さく可愛らしく見せるために、親指や小指や薬指を内側に折込むといった美学を考案しているが、そうした美学をそのまま剣詩舞に受け入れるには抵抗がある。
 大体が剣詩舞での手振りは、まだまだ能や歌舞伎舞踊に比べて少ないし、また創意工夫も足りないように思われる。
 次に足の美学的動作を考えることにするが、剣詩舞の衣装はほとんどが袴をつけているので、歌舞伎舞踊のように露出した足の表情を見ることは少ない。
 さて、剣詩舞は“舞う”とはいうが“踊る”とはいわないという意見があるが、これには舞踊学的に異論がある。踊るという言葉には“足拍子”を踏んだり跳躍する動作が含まれているから、剣舞はもとより、詩舞にもこの種の動作が拍子(リズム)と一体になって舞踊美学的な効果を上げている。
 そもそも足を踏むという動作には、大地の悪霊などを鎮めたり、聖霊を蘇(よみがえ)らすといった呪術的なものがあったが、現代ではそのような意味よりも、動きのリズム感が大切にされ、それによって剣詩舞の表現力が豊かになると共に、吟詠の音楽性も重視する結果となって来た。
 
【現代剣詩舞の美学】
―新しい舞踊的表現とは―
 前項で述べたように、現時点における剣詩舞の美的価値は、基本的にはそのまま今後に引き継がれるであろうが、次々に新しい舞踊美学が追求される現代において、剣詩舞界だけがこの新しい風潮に背を向けることは芸術性向上のためにも許されないことであろう。
 では、こうした観点から更に次の三つの問題点を検討してみよう。
 
<精神性から主題(テーマ)性へ>
 従来、剣詩舞の表現内容については、とかく観念的な精神性を尊ぶ傾向が見られた。こうした考え方を真向から否定するわけではないが、例えば剣舞に多く見られる傾向として、詩文を武士道の精神性に結びつけ、戦意高揚的な居合・抜刀術の連続動作が振付の基(もと)になって、詩の本来の意味を見失ってしまうことがある。紙面の制約で具体的な指摘は避けるが、それらの詩文に述べられた作品の主題を掘り下げるために、とかく陥り(おちいり)やすい主観から一歩身を退いて、客観的に作品を読みとることと、更にその作品を現時点で剣詩舞作品として演じることの価値を舞踊美学的な立場で考えにいれたい。勿論、主題性を探求していくと、詩文の字句と振付の動作とが一致しない場面にめぐり合う事もあり、当て振り的な表現に慣れた(なれた)人達は当惑する場合もあろう。こうしたときの表現技法は、主に具象的なものが多いと思われるから、振付の発想を抽象技法に転換して、更に深味のある動きで主題を表現すべきであろう。
 
<刀剣の見直し>
 剣舞家にとっては、少々おだやかでないテーマだが、意とするところは、従来の刀剣にたいする種々なこだわりからの開放である。
 さて従来の剣詩舞の動きの中には、古来よりの刀法や礼法を舞踊的に磨き上げていくと云いながら、実際には舞踊性よリも刀に対する精神性に偏った(かたよった)振付が多く見られた。しかし現代のテレビや映画で見られる写実的な剣技の映像や、歌舞伎や時代劇の立回りは、ほとんどが自然体を主流にして、刀法や礼法と云ったこだわりを感じさせない動作が見られる。一方、最近では外来の芸能として中国の京劇など広い範囲での剣技に接することが出来るが、それらの写実演技や創作された様式的な演技は舞踊美学的にもすぐれたものが数多くみられるようになった。
 さて、剣詩舞の将来像として前述の様な剣技の模倣を推奨しようとする考えはないが、見習いたいのは刀剣に対する必要以上のこだわりをもたずに、剣技を舞踊表現に巧みに活用している点である。
 また剣舞の名称のこだわりからか、刀剣一辺倒の観念が迫力や変化を必要とする演舞表現を狭い(せまい)ものにしている。武器にしても、槍、長刀、棒、双刀などを効果的に活用する一方、武器の抽象表現を考えれば、能の仕舞や日本舞踊の素踊りの如く、扇を武器に見立てた剣舞が創られて(つくられて)も決して不思議ではなく、こうしたこだわりを氷解することも期待したい。
 さて、また別な観点から論を進めるが、剣舞の舞踊的表現とは、その刀法では“人が斬れるか斬れないか”が最重要課題なのではなく、舞踊的な迫力で必殺の演技を如何に見せるかというテクニックが大切だと思う。勿論そうした舞踊行為が、武人としてのマナーを充分考慮することを前提にしたい。
 
<振付権の見直し>
 我が国では、芸能を伝承普及する目的で家元または宗家・会長が流儀(流派・会派などの別称がある)団体を作って門下生を育成してきた。この組織の運営は家元が中心になって行うが、流儀の芸能の見直しや、新たな創作(舞踊では主に振付)もその権限は大体家元が司る(つかさどる)とされてきた。しかし近年、一部の芸能界では、この振付権に対して、個人の芸術的主張がかなり容認されるようになり、新たな作品は、その企画者が自由に振付することを流儀が許すようになった。こうした振付権の問題は、基本的には個人の芸術活動を尊重するといった欧米の舞踊界と同様な考え方で日本舞踊界では“新舞踊運動”が起こった大正末から昭和初期にかけてと戦後が顕著で、現在もかなり自由になっている。但し能などの古典芸能界は日本舞踊の様に開放的ではない。
 さて本論に戻って、剣詩舞界に限ってこの問題を考えてみると、方向としては一応秩序ある解決策を各流儀が立て、外部からの干渉は避けるべきであるが、特に留意したいのは、最近剣詩舞の舞踊表現技術が日々芸術的に向上し、これに多くの目を向けることによって、流儀全体の舞踊美学を向上させる必要があろう。さて以上述べた枠の中で試案を列挙して本稿のまとめとしたい。
(1)伝承された流儀の古典作品についは、本稿(一)「現代剣舞への道」及び(二)の「現代詩舞の道」に述べた各項を家元の責任で見直し、且つ流儀の特徴を反映させると共に、門下への浸透を計る。
(2)新しい作品の振付については、前項同様に家元の責任で振付権を留保するか、又は当事者に委譲するかを、原則にとらわれず個々に応じて認める。
(3)流儀伝承作品を、門下当事者が演出上の理由等で新たに振付たり、又は家元に対して新振付を求めた場合は、芸術性の向上に役立つならばなるべく認める。コンクール等の作品振付も同例とする。







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