イラクをめぐる情勢が一段と緊迫の度を加えているが、まだ日本人の間には一部に戸惑いも見られる。そこでは大きな視野を忘れたり、時には「為(ため)にする」ような瑣末(さまつ)な技術論や感情的な反米論すら見受けられる。しかし今日イラク問題を考えるとき次の三つの視点を抜きにして論じることはできないのである。その一つは、湾岸戦争とその後の10年余りの経験であり、第二に「9・11」テロ事件が今日の世界に及ぼしている深刻な脅威であり、それに対処する新しい原則が求められている点である。そして第三にイラク問題への日本の対応は、今後緊張を高めてゆくであろう北朝鮮問題と無縁のものではない、という視点の重要性である。
湾岸戦争直後、国連はイラクに対し大量破壊兵器の査察について「全面的で最終的、かつ完全な開示」を求める決議を挙げイラクはこれを無条件で受け入れた。実際、それは湾岸戦争の停戦条件でもあった。にも拘(かか)わらず、イラク政府は大規模で巧妙、そして時には軍隊を使って強硬に査察妨害を繰り返してきた。独裁政権が本気で査察逃れをしようとすれば、国際社会は殆(ほとん)ど打つ手がなくなるというのがこの10年の経験だった。
また「9・11」以後、テロにどう対処するかが世界秩序の大問題となった。最近のバリ島やモスクワの劇場事件、イエメン沖でのフランス・タンカーへの自爆攻撃など、ますますその脅威は拡(ひろ)がっている。これに対し世界は「いかなるテロに対しても、かつてなく厳しく対処する」という決意を固めつつある。イラクのフセイン政権は毒ガスを使ってクルド人を大量虐殺し、また多くのクウェート人を拉致したまま今も解放しようとしない。こうした国家テロを繰り返す無法国家は、結局その極端な独裁体制に真の問題があるということが明らかになりつつある。この点で、拉致問題や核開発、工作船やミサイルの発射を繰り返す北朝鮮の問題と重なってくるのであり、「9・11」の意味は、アルカイダとの関(かか)わりがあるか否か、という点にあるのではない。ただイラクと北朝鮮とでは地政学的条件やその軍事力の違いによって具体的な対処の仕方が多少異ならざるを得ないだけなのである。
イラク問題に対する日本の対応を考える上で、去る11月8日に国連決議が挙がったことの意味は大きい。これによって従来、「国連決議なしの攻撃はダメ」と言ってきた人々も、今や責任を自覚しなければならなくなった。おそらく、イラクの非協力が明らかとなって攻撃容認の決議も間もなく挙がるだろう。そのとき日本は攻撃支持を明確に表明するだけでなく、イージス艦の派遣も含めた可能な限り最大限の作戦支援に踏み切る必要がある。それは単に国連決議や日米関係への配慮にとどまらず、今後予想される北朝鮮情勢のさらなる緊迫化に際し、何よりも重要な日米連携の一層の緊密化に不可欠な、いわば「日本存立の支え」ともなるからである。
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