2003/03/23 産経新聞朝刊
【論壇時評】4月号 主権国家か帝国か
編集委員・稲垣真澄
“戦争直前”という時期に当たり、四月号各誌は当然のことながらイラク関連論文であふれた。しかしあえて一本の座標軸上に据えてみるなら、「アメリカの行動をとことん支持」「アメリカの行動にとことん不賛成」「その中間」という具合に三大別される。
「とことん支持」の典型は岡崎久彦・田久保忠衛対談「棍(こん)棒と警棒を取り違える勿(なか)れ!」(諸君!)である。田久保は外交は思想の出来事とは異なり、「ハウ・トゥ・サバイブ」をつねに考え国益第一にあくまで現実的に行動せねばならず、今「アメリカと協力していくこと以外、日本にどういう選択肢があるか」と問う。自国だけで自国を守れる国は世界中でアメリカ以外には存在せず、であるなら世界最強の国家と同盟関係を結ぶことは日本の国益に大いにかなう。そのアメリカの“暴力”をイラクや北朝鮮の暴力と混同するのは警察官の警棒とちんぴらの棍棒とを混同することにほかならない。岡崎も「集団的自衛権の行使ができるまでは口が裂けても、反米的言動はしない、それ位の意地というか矜持(きょうじ)が欲しいですね」と応じる。
「とことん不賛成」は西部邁「アメリカ戦略にはらまれる狂気」(正論)と、寺島実郎「『不必要な戦争』を拒否する勇気と構想」(世界)に集約されよう。西部は“イラク大変”の中で見えてきた事柄の本質は“アメリカ問題”であるのに、日本の知識人はそのアメリカに東京裁判以来の従僕根性をもって対するのみ、と嘆く。テロ根絶から独裁の廃絶へといった論点の移動、自らの国連軽視と他者への国連重視の強要の矛盾、同じ大量破壊兵器を有するイラクと北朝鮮への対応の矛盾・・・などを列挙し、アメリカのイラク戦争が「無名の師」(大義なき戦争)になりかねないことをいう。がむしゃらなアメリカの単独主義的行動を支えるのはネオ・リアリズムと呼ばれる戦略思想だが、さらに根にあるのは歴史を有さない国民が一つにまとまるには、ネーション・ステートのうちステート(政府)の主導によるしかないアメリカの宿命だとも。その西部と立場をまるで異にする寺島が、論の進め方まで似た主張を行っているのは面白い。
「その中間」はさしずめ山内昌之の「イラク問題が迫る日本の決断」(中央公論)であろう。結局はアメリカの行動を追認せねばならぬにせよ、その追認せねばならぬ苦渋の選択の意味を、日本政府は国民に説明する義務がある、と。
9・11以来、「テロに無力な国家」がいわれ、これからの戦争は国家対国家ではなく、目に見えない脅威に対する非対称なものになると指摘された。ここでも国民国家(主権国家)の終焉(しゅうえん)の兆しがいわれたわけだが、その後論点がイラクに移るにつれ、英米と仏独露の駆け引きに典型的なように、なんのことはないアクター(役者)はまぎれもない国家ということになってしまっている。そんな中で一極構造、一強多弱、単独行動のアメリカを新しい「帝国」と見るか、それとも従来の主権国家と見るかの議論がさかんである。
佐伯啓思は「中央公論」の短い論評「アメリカ−『帝国』と『主権国家』の相克」で簡便な見取り図を描いている。九〇年代を通じて経済のグローバル化や情報通信革命によって「帝国」的状況を生みだしたのもアメリカなら、近代的主権国家のリアリズムに固執するのもアメリカである。国家から帝国へと単純に移行するのではなく、現代は帝国的秩序と主権国家システムの二重構造の時代だという。
そもそも帝国とは、それぞれ文化を異にする多民族間に、軍事力によってか文明力によってか神聖権威によってか秩序を与えるシステムで、その際見逃されてならないのは直接統治ではなく間接統治が多用されたことである。直接統治は反発による民族の独立を促す。どうやらアメリカの先制攻撃論を含む単独行動主義はこの直接統治に近く、やがて離反を生み、帝国的ではないように思われる。
ちなみに帝国という言葉には、とりわけ十九世紀から二十世紀にかけての特定の主権国家による植民地帝国、帝国主義の響きが色濃く残り、特集「帝国の戦争に反対する」(世界)やシンポジウム「テロリズムと帝国」(論座)のいくつかの論文では、初めから帝国主義的なものとして帝国(アメリカ)を否定する意味に限定して使われているように思われる。=敬称略
(いながき・ますみ)
【写真説明】
田久保忠衛氏 西部邁氏 佐伯啓思氏
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