2003/02/07 毎日新聞朝刊
対イラク攻撃 戦争への道急ぐな
外信部長・中井良則
世界は分裂している。反戦か、参戦か。米国に異議を唱えるか、付き従うか。米国のイラク戦争計画は、世界中の政府と人々に二者択一の踏み絵をつきつける。主権国家の集合体であり続けた世界の枠組みが、根底から変わるかもしれない。戦争をしないで平和と安全を守りたいと願う人類の知恵にひびが入るかもしれない。
ブッシュ米政権はフセイン・イラク政権の「切迫した脅威」を証明し、先制攻撃を正当化しようとする。パウエル国務長官による5日の「新証拠開示」はその頂点だった。昨年9月以降、米国は国連決議1441を得るため、国際協調路線をとり、今回は、機密情報を開示してでも各国を説得しようと努めた。その姿勢は評価できる。だが、世界の世論はまだ納得していない。
このまま攻撃が始まった場合、正義の戦争といえるだろうか。国際社会の原則と道義において正当性に欠けるという疑問が消えない。ワールドカップ開会までの日数をカウントダウンしたり、竜巻の方向を占うかのように、歯止めもなく戦争に突っ走るべきではない。
米国の筋書きは明らかに思える。国連安保理で武力行使容認決議がまとまればそれで良し。望みどおりの決議がとれなければ、新決議なしでフセイン政権を武力で倒し親米政権を作る。
「われわれが正しい行動をとれば世界はついてくる」。ラムズフェルド米国防長官は昨年、そう語った。9・11同時多発テロの再発を許さない決意は、ほかの国民の想像を超える。世界に例がない軍事力、経済力と情報力を備え、対抗する国はない。危機感と自信が相まって、イラクのような「怪しい国の危ない政権」を独自に排除すべし、という論法になる。
だが「攻撃を仕掛けていない外国への先制攻撃」を実行すれば、国家論と戦争論の二重の意味で、国際秩序を作り変えるだろう。
世界大戦の反省から生まれた国連は、国家主権を尊重し、国家の大小や強弱を問わず平等であるとの原則に立つ。戦争については、攻撃された場合の自衛権行使を「安保理が必要な措置をとるまでの間」(国連憲章51条)に限り認めるだけだ。国家の戦争権は限定されている。
いまの米国は、戦争は国家の主権行使であり制限は受けない、という立場だ。米国が「ならず者」と認定し、いうことを聞かないとみなす国に対しては、主権尊重の原則を適用しない。ブッシュ政権の隠された真の目的が、大量破壊兵器ではなく、石油利権の確保や中東への影響力拡大、さらにはみずからの再選戦略の一環だとすれば、道義性に疑問符がつく。
ブッシュ政権は一国だけで判断し、一部の同盟国の協力で先制攻撃を開始できる前例を作ろうとしているようにみえる。
フセイン独裁体制を弁護する余地はない。国連査察団をごまかし、だまし、隠し通そうとしている。とはいえ、戦争という「最後の手段」を急いで発動すべきだ、という認識は世界に定着していないだろう。罪なき人々の命を奪う戦禍は最後の最後まで回避すべきだ。各国の圧力で査察を強化し、大量破壊兵器を作らせず使わせない封じ込め戦略で、戦争に訴えずに脅威を減らす可能性に賭ける時だ。
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